初期インディーズブーム時代から80年代全般にかけ活躍したミュージシャンの中で、思い出深い人の一人としてアルトサックス奏者の篠田昌己が挙げられるだろう。1958年生まれの篠田は78年にマスコミでも話題になったフリージャズ楽団『生活向上委員会管弦楽団』に参加してプロデビュー。生活向上委員会脱退後はジャズよりもインディーズ寄りのバンドに幾つか参加。82年に和製ファンクバンド『暗黒大陸じゃがたら』(その後『JAGATARA』と改名)に加入。JAGATARAには90年に解散するまで在籍。その時期も並行して様々な人たちと演奏し、89年に漸く自分がリーダーを務めるグループ『コンポステラ』(管楽器のみのトリオ編成)を結成したと思ったら、91年末に急性心不全で急逝。後で知れた事だが篠田には生まれついての心臓疾患があった。これからの活動が期待される矢先亡くなってしまい、その喪失感はかなり大きかったと言える。

 本書は08年に篠田生誕50周年に当たるライヴイベントが行われた際、それに合わせ出版されたパンフレット『コンポステラ★星の広場に』の増補版として、新たに篠田に近しかった人々の寄稿やインタビューを加え22年に出版された物。編集者の大熊ワタル(亘)は幾つかのインディーズバンドを経て『シカラムータ』を結成したクラリネット奏者で、篠田と共演を通し交流を深め同じアパートの住人だった事もある。元々はキーボード奏者だった彼にクラリネットを吹く様に勧めたのも篠田だったという。

 本書には様々な媒体で篠田について書かれた文章や、篠田自身へのインタビューも収録してある。『コンポステラ』のレパートリーは当時の日本では誰も演奏していなかった東欧の音楽「クレズマー」、チリの反体制シンガー、ビクトル・ハラの曲、ユダヤ人音楽など海外の知られざる音楽と共に日本のチンドン音楽も演奏。勿論篠田のオリジナル曲もアルバムには収録されている。ジャンル的には「ジャズ」という事になるのだろうが、それに留まらないグローバルな視点を篠田は持っていたのだ。

 俺はまず生活向上委員会のNHK教育番組の出演で篠田の演奏を聴き、上京してから篠田の演奏を何回も聴いている。やはりJAGATARAのライヴで聴く機会が一番多かったのだが、JAGATARAのライヴで彼がソロを取る風景は記憶の中にはない。ホーンセクション隊では常にトランペットとトロンボーンがソロを取っていた。篠田は何故ソロを演らないのか不思議に思っていたが、本書にその回答が記されていた。83年に篠田は下北沢で偶然「チンドン社中」の演奏を聴いて衝撃を受けその場で弟子入り志願。チンドン仕事がシノギの一つとなる。

 チンドンには当然ながらサックス奏者が延々アドリブソロを取るなんて事は皆無。常に決まったフレーズを弾くという究極のアンサンブルスタイルの演奏であり、その仕事を進めていく内に篠田は、フリージャズスタイルのブロウしまくり的演奏の無効さを認識したという。出自がフリージャズという事もあり、それまでの篠田はやはり吹きまくりスタイルのサックス奏者だった。それがアンサンブルを重要視する事で、自ら志向する音楽性も徐々に変化していったのだ。

 それは即ち篠田の人間的資質を顕している。証言者によると日常時の篠田は常に笑顔を絶やさない穏便な性格で、アクの強いインディーズ連中の中では異色な存在だったという。ただ自分がライヴハウスでやっても微々たる興収が出るくらいがやっとなのに、TVCMのBGMでちょっとだけ楽譜通り吹くだけのスタジオミュージシャンが、10万や20万ももらっているのは納得できないと零していたそうだから、自分の音楽に対しては自信を持ち、常に「硬派」だった…と言えるだろう。

 本書はそんな心優しき硬派なサックス吹き、篠田の人柄を物語るエピソードがいっぱい詰まっており、俺みたいな生前の篠田の生演奏に接した(1989年2月24日の「大喪の礼」の時も、反天皇制イベント的なライヴで篠田の演奏を聴いた。会場には取材で訪れた小宮悦子テレビ朝日アナウンサーの姿も)者にとっては、色々と思う所があるのだが、篠田の生前をリアルタイムで知らない人にはどうなのか。今の音楽界は全てにおいてデジタル化が進んでおり、篠田みたいな人力による音楽の変革や新しい発想などは、もう不可能になっている感もある。昭和リバイバルの時代だから、却って新鮮な音楽として受け入られる可能性も僅かながらあるのか…。

 最晩年の篠田は服用しなければならない心臓系の薬を断っていたという。敢えて薬を断つ事で新しい生に賭けようとしたのか、それとも副作用もありそうな薬と共生し続けなければいけない人生に、音楽への情熱以上に疲れてしまっていたのか、それは今となっては誰にも分からない。