元旦から能登半島地震のニュースって今年もあまりいい事がないという予兆なのか。地震発生から10日以上経っても依然災害地の状況は厳しい物がある。そしてボランティア活動についても色々な意見が乱れ飛んでいるのだが…。

 そこで思い出すのが震災とプロレスの関係。1995年1月17日に発生し兵庫県を中心に6432人の犠牲者を出した阪神淡路大震災。俺が思い出すのは『週刊ファイト』(新大阪新聞社が発行していたタブロイドプロレス専門紙。06年にタブロイド紙としては休刊)に載った「震災の跡を見ながらインディーズ団体の今後を憂う」的な見出しが載った文章。正直どんな内容だったかはもう覚えていないけど、震災の瓦礫を見ながら「電流爆破マッチ」などの事を想起する発想が奇天烈過ぎというか、こんなアホな事考えるのはプロレス界の中でも週刊ファイトの初代名物編集長・I氏以外にいないだろうな…とつくづく実感させられたのであった。当時のI編集長は猪木のみならず大仁田を檄推ししていたのだ。

 震災の二日後、1月19日に大阪府立体育会館で『新春ジャイアントシリーズ』の興行を予定していた『全日本プロレス』は悩みに悩んだ末試合決行を選択。メインイベントは三冠ヘビー級選手権王者・川田利明vs挑戦者・小橋健太とのタイトルマッチであった。その試合は60分時間切れのドローに終わり川田が防衛。その日の興収と選手のギャラは全て災害の義援金に充てられた。

 同じ日ジャイアント馬場は生活必需を買い集め全日本のファンクラブの会員名簿に載っている家を訪ね歩いて必需品を提供して回った。何しろ「他人の空似」なんて有り得ないんだから、馬場の突然の訪問に被災者の人は驚いただろう。この件は最初公にはされなかったが、馬場のシンパになっていた、当時の『週刊プロレス』編集長・ターザン山本によって公にされた。ちなみに馬場の墓は災害被害が大きかった兵庫県明石市にあるという。京子夫人と出会った『讀賣ジャンアンツ』時代のキャンプ地が明石市だったのだ。

 まだ記憶に新しい2011年3月11日の東日本大震災。全日本プロレスは東北巡業に向かう最中選手を乗せたバスが高速道路で走っていた際に被災。ただ選手の中に阪神淡路大震災を経験した選手がいて、その選手が迅速に指示した事で特に被害はなかったという。現地集合で全日本の巡業に合流するはずだった女子選手は、物資の流通が途絶え食料の入手も困難な東北の街で眠れぬ夜を過ごしたとか。

 2011年3月11日の東日本大震災のチャリテイー興行を行おうという動きが『東京スポーツ』を中心にまとまって、メジャー3団体『新日本プロレス』『プロレスリング・ノア』全日本プロレスの選手が参加しての合同チャリテイー興行『ALL TOGETHER NOW』が4月18日に日本武道館で開催された。メジャー団体の合同興行としては、1979年8月26日の『夢のオールスター戦』以来約32年ぶりの興行であった。

 試合結果を見てみると、第2試合で先日闘ったばかりの内藤哲也と当時全日所属だったSANADA(真田聖也)が6人タッグマッチでタッグを組んで出場。メインイベントは潮崎豪(ノア)。諏訪魔(全日)、棚橋弘至(新日)対中邑真輔(新日)、KENSO(全日)、杉浦貴(ノア)の6人タッグマッチだったが、記者会見の時からKENSO(元新日の鈴木健想)がKY(空気読めない)発言を連発。どうなる事やらと思っていたら、試合ではKENSOが他の選手の必殺技を全て食らってフォール負けという、極めてショーマン的な結末になったが、特に試合に対しての批判はなかった。そんなイベント色の強い興行であった。

 さて今回の能登半島地震に対しては、やはり阪神淡路大震災を経験していると思われる『大阪プロレス』が100万円を義援金として提供。「偽善と思われても構わない」(大阪プロレス社長兼エース・ゼウスのコメント)。「ボランティア」は「チャリテイー」と同意語みたいに捉えている人が殆どだと思われるが、本来の英語としての意味は「自分の意志で志願する事」。人それぞれのやり方で義援金を送るなり被災地に行って復興支援活動(災害関係者の邪魔にならない事が前提だが)をすればいい。但し「大阪万博が被災地に夢や希望を与えてくれる」という阿呆な発言は問題外。家や身内を失った被害者の心の痛みは、万博どころではない事も判らないのか。

 ちなみに石川県知事は生涯現役レスラー宣言している馳浩だ。俺はこれまで馳の政治家としての資質に疑問を覚え批判していたけど、ここで一気に汚名挽回し政治家として逆転フォール技を決めて欲しい物ですね。