1975年には「トロピカル3部作」の第一弾となるソロアルバム『トロピカル・ダンディ』が発売され『ティン・パン・アレー』で小坂忠のバックバンドの一員として全国を回った細野晴臣。その一方で他のミュージシャンのレコーディングにも多数参加。その過程で喜納昌吉の『ハイサイおじさん』を聴き衝撃を受け、『久保田真琴と夕焼け軍団』のレコーディングでハワイ滞在した事時にハワイ音楽に触れ、更に大瀧詠一からの影響でニュー・オーリンズ音楽に感化を受けて…などなど、日本の音楽シーンを泳いでいる内に、細野の音楽志向は旧来のロックのスタイルからはどんどん離れつつあった。

 そんな細野の音楽観の変化の顕れとなったのが、トロピカル3部作の第2弾『泰安旅行』だ。小坂忠のライヴに参加したティン・パン・アレーのメンバーを中心に、ソロデビューしたばかりの矢野顕子、これも結成されたばかりだった『ムーンライダーズ』のメンバーなどに加え、大物コーラス隊も参加。強力な布陣でのレコーディング。「泰安旅行」のタイトルは、長崎に実在する雑貨店の店名を拝借したとか。

 

 アナログA面1曲目『蝶々-SAN』は、イントロに三味線みたいな音が入っているけれど、基本的にはニュー・オーリンズサウンドの展開。細野のヴォーカルに恍けたコーラス(大瀧詠一&山下達郎)と、合いの手ぽい女性コーラスも。歌詞も恍けた感じで統一されている。

 

  2曲目『香港ブルース』は『スターダスト』『わが心のジョージア』などで知られるホーギー・カーマイケル作のエキゾチックナンバー。イントロで銅鑼が鳴り響き、オリエンタルムードを振り撒きつつも、細野の音楽観によって奇妙な無国籍ポップスナンバーに仕上がっている。

  3曲目『“Sayonara”The Japanese Farewell Song』もカバー・ソングらしい。ポコポコと鳴るパーカッションやヴィブラフォンなどの打楽器音が曲を支配しており、独創的という意味では「ロック」を超越している部分も。日本詞と英語がチャンポンになった詞も面白い。矢野顕子のヴォーカルも曲後半には聴こえてくる。

 

 4曲目『Roocho Gumbo』はタイトル通り、大瀧に勧められて聴いたドクター・ジョンのアルバム『ガンボ』(72)からインスパイヤされたのかと思いきや、ニュー・オーリンズ音楽と沖縄音楽をチャンポンさせて東京風にアレンジした物になっており、歌詞的にも沖縄音楽への憧憬を隠そうとしていない。エンディングでは細野が『ハイサイおじさん』の一節を唄ったりも。

 

 A面最後の曲『泰安洋行』は、細野が全楽器の演奏を担当したインストナンバー。当時は殆ど存在を知られていなかったスティール・ドラムなどをフィーチャー、インストという事もあり、後の『YMO』を彷彿とさせる人工美的なサウンドが展開される。

 

 

 アナログB面1曲目『東京Shyness Boy』は、まだシャイで内気だったムーンライダーズの鈴木慶一の事を唄った曲だとか。ホーンセクションが導入され内気といったテーマに添った、やや抑えめなファンキーサウンドに仕上がっている。

 2曲目『Black Peanuts』のタイトルは、偶然にも同じ年に世間を騒がした「ロッキード事件」を皮肉った物になった。ナンセンスぽい詞は細野独特のセンスであろう。カリビアンミュージックを彷彿させる様な陽気なサウンド。

 3曲目『Chow Chow Dog』はソウルフルなイントロが印象的。従来の黒人音楽への憧憬が良く滲み出たロック・サウンドになっており、本アルバム収録曲の中では比較的普通な?曲だとは言えるのだが…。

 4曲目『Pom Pom 蒸気』は古いジャズを意識した様なリズム&コーラスアレンジが良い。スティール・ギターが全編にフィーチャーされてやや懐かしくもノリのいい曲になっている。ナンセンスな詞は大瀧詠一からの影響も強いのではないかと。

 アルバム最後の曲『Exotica Lullaby』はシンセサイザーを大胆に導入し、ニュー・ウェイヴ時代のポップスを先見した様な曲になっている。この曲の細野のヴォーカルに懐かしさを感じたりするのは、昔(70年代前半)の細野ワールドが好きだったりするからかな? エンディングのシンセの残像的なアレンジも時代を先取り?

 

 

 A面曲では当時の細野の音楽趣味が彼流の解釈で具現化されている。勿論日本には類を見ない音楽で、まだ英米音楽が至上のロックとされていた時代にオリエンタリズムを強調し、沖縄やハワイの音楽のエッセンスを積極的に取り入れ感覚は凄いとは思うけど、当時の日本の音楽界の中では目指す地点のレベルが高過ぎて、同時代的には評論家的な評価以上の物を求めるのは困難だった…と言えるかもしれない。

 B面はA面に比べると保守的な?曲が多いけど、『HOSONO HOUSE』(73)が好きな俺なんかには、こっちの方がまだとっつき易かったかもしれない。参加ミュージシャンの中では、細野の厳しい要求に見事に応えたキーボード奏者・佐藤博の仕事ぶりが目立っており、山下達郎などにも重宝がられる(米国在住の佐藤のキーボードを被せる為だけに、山下がレコーディングの録音テープを持って渡米した事も)きっかけになったのではないかな。

 本アルバム発売(76年7月)に先駆けて細野は『ハリー細野とティン・パン・アレー』名義で、横浜中華街にてコンペ的なライヴを実施、『トロピカル・ダンディ』と本アルバムの曲を半々の割合で披露。その時スケジュールの都合で不参加となった佐藤博の代役として演奏したのが、まだ東京藝大に在籍していた坂本龍一であった。