高石友也を擁する音楽事務所『高石事務所』が、会員制のインディーズレーベル『URC』がを発足させたのは1969年1月。翌2月第一回の配布レコードとして高田渡と『五つの赤い風船』のカップリング盤や、シングル『イムジン河』『坊や大きくならないで』などが会員に配布されている。

 それに連動する様に高石事務所と近しい関係のミュージシャンが出演するコンサートシリーズ『あんぐら音楽祭』を開催。そのオープニングと謳ったコンサートは3月20日大阪厚生年金会館大ホール、26日東京・渋谷公会堂で行われた。そのコンサートを収録したのがさっき聴いた『あんぐら音楽祭』(2枚組CD)。URCの音源の販売権を獲得した『キティレコード』がお蔵出しした録りテープを基に制作、「新譜」として89年に発売。

 実は行われた順とは逆に東京編がDISC1、大阪編がDISC2になっているらしい。DISC1の出演者はMCも兼ねる高石友也、『ジャックス』、『五つの赤い風船』『六文銭』『端田宣彦とシューベルツ』、遠藤賢司、中川五郎、高田渡&岩井宏。加藤和彦も出演しているが本CDには収録されていない。大阪編では東京勢の六文銭と遠藤賢司、端田宣彦とシューベルツは出演せず。出演して当然の岡林信康が両日共出演した形跡がないのは、3月29日東京・神田共立講堂での『あんぐら音楽祭 岡林信康リサイタル』が迫っており、それに集中する為に出演辞退したと思われる。

 

 DISC1は高石の挨拶と、ベトナムで民衆歌として歌われてきた『坊や大きくならないで』の歌唱から始まる。挨拶の口調は優しいけど、歌謡曲みたいなくだらない歌ではない歌を唄い継ぎたい…と結構過激な発言。高石に新しいグループ的に紹介されるジャックスだが、同年7月のワンマンライヴで解散を発表する事に。DISC1に『花が咲いて』、DISC2に『ロール・オーバー・庫之助』『ラブ・ゼネレーション』が収録されているが、お宝的には高石友也&ジャックス名義のDISC1『明日なき世界』(『RCサクセション』でもお馴染みの、バリー・マクガイヤー曲のカバー)、DISC2『殺し屋のブルース』(岸信介&佐藤栄作兄弟を揶揄した中川五郎作のプロテスト・ソングで放送禁止処分)だろう。音楽の方向性としてはかけ離れている様に思える両者のタッグが興味深い。

 

 六文銭『五年目のギター』遠藤賢司『ほんとだよ』は、形式的には高石が推奨するプロテストソングからは離れているが、個性的である事を評価されての出演だろう。問題は既にヒットしていた端田宣彦&シューベルツの『風』で、アングラソングとは言えないこの曲を観衆はどう聴いたのだろうか。

 1stアルバムとほぼ同じの完璧な演奏を披露する『五つの赤い風船』の楽曲性の高さは言うまでもないが、この二日のライヴで主役級の扱いを受けているのが若干20歳の高田渡。DISC1でアニマルズの『朝日のあたる家』の歌詞は甘いと批判し「本当の詞はこうだ」と言って『朝日楼』を唄い(URCのディレクターとして活動する事になる岩井宏がバンジョーで伴奏)。DISC2でも外国の曲ばかりでなく日本の演歌師の曲も知るべきと添田亜蝉坊の詞に曲を付けた歌を唄い「反戦歌を唄わないと言う森山良子は間違っている」と発言。トピカルソング『大ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄』では岩井宏らと共にパロデイ精神も発揮して観客の受けを狙う。硬軟両方で聴かせる高田渡氏なのだ。

 

 

 対照的に中川五郎はムチャ硬派。DISC1『主婦のブルース』はボブ・ディランの曲に自作詞を乗せて抑圧の人生を送ってきた女性の悲嘆を通して日本社会における女性差別を唄い(高石がこの曲を「参考」にして『受験生ブルース』を唄い大ヒット)、ピート・シーガーの『腰まで泥まみれ』を原詞に忠実に和訳して、泥沼化したベトナム戦争を継続する米国政府を批判(舗装禁止処分曲)。どちらも純プロテスト・ソングでまだ19歳という事もあるけど、その怒りモードもストレートだ。

 

 随所に登場する高石友也のMCは饒舌過ぎて興を削ぐきらいもあるのだが、これは本人のキャラクターで意図的にそうしてる訳ではないので…。ライヴの最後に音頭を取って観衆とDISC1では『イムジン河』、DISC2では『勝利を我らに』(ウィー・シャル・オーヴァー・カム)と岡林の『友よ』をシング・アウトし両日共終了となる。

 

 関西フォ―ク及びプロテスト・ソング絶頂期のコンサートという事もあり、フォ―クソングがシステム化された以降とは違う熱気を感じさせる。出演者も端田宣彦&シューベルツを除けばヒット云々よりも唄いたい事があるから唄うんだみたいな強い意志が感じられ、URCはそういう彼らの曲をより多くの人に届けないが為に会員制から市販に踏み切る…というのは半分建前で、URCとの契約という形でミュージシャンを高石事務所(後に『音楽舎』と改名)に囲い込んで収益をより伸ばしたい…というのが本音だった。そういう準商業主義に嫌気がさした高石友也は翌70年早々米国旅行に出て以降、URC界隈とは袂を分かつ事になってしまうのだ。