舞台は佐渡ヶ島。水産加工場で働いている登美子(田中裕子)の夫は、30年前ちょっと出かけて来ると家を出て行ったまま戻らず。以降登美子は拉致被害も考えあらゆる手段を講じて夫を探したがいまだに消息不明。登美子の幼馴染の漁師・春男(ダンカン)は夫の事は諦めて俺と一緒にならないかと彼の母親共々申し込んでいるのだが、登美子は頑として首を縦には振らなかった。そんな登美子に元町長が奈美(尾野真千子)という30代の女性を紹介する…。

 

 個人的にはこの所出演作品を観る機会が多い田中裕子。彼女の最新主演映画が本作。突然夫が姿を消したまま生活を30年続けてきたヒロインを描いた人間ドラマ。TV畑で数々のドキュメンタリー作品を演出し世界的評価も受けているという久保田直のデビュー作『家路』(14)に次ぐ8年ぶりの劇場映画作品。田中裕子はその作品にも同じ「登美子」名で出演している。『家路』で脚本を執筆、田中裕子主演『いつか読書する日』(05)も書いている青木研次が再登板。22年だけで7本もの出演作があった尾野真千子、元『たけし軍団』のダンカン、安藤政信、白石加代子、小倉久寛などの出演。キネマ旬報2022年ベスト・テン第10位にランク・インした。

 

 看護師である奈美の夫も2年前失踪し行方が分からない。同じ境遇という事で親しみを感じた登美子は奈美を連れて警察に行ったり、彼女の夫の行方探しに協力。北朝鮮籍の船が海に沈み救助された乗組員が奈美の勤務する病院に運び込まれたと知るや、病院に駆け込み夫の事を尋ねる登美子。彼女の母が亡くなり天涯孤独になった登美子に再度春男が求婚するが、登美子はつい厳しい事を言ってしまい、春男は死んでやると言い残し姿を消した。奈美にも付き合って欲しいと言う同僚・大賀がいた。やはり拒んでいた奈美だが、心の隙間に耐えきれず一夜を過ごす。ある日所用で新潟に出た登美子は奈美の夫と思われる男と出会い…。

 

 夫の帰還を待つ続けている登美子だが、夫の存在は彼女の記憶の中に残るのみで現実感はもう無い。一方奈美にとって夫は現実感を伴う分、充たされない生活の飢えが彼女を苦しめている。そんな対照的な二人の生き方が描かれていくのだが、そこ間にひょっこり見つかった奈美の夫が介在する事で波紋が生じ…という展開。田中裕子の渇ききった佇まいが異様というか、今や日本映画界にとってオンリーワンな立ち位置の女優になった事を実感する。ドキュメンタリー仕込みのリアリズム的な描写を心がけながらも、肝心な所でファンタジーに走る?演出も悪くはない。情けないダンカンを見て「ダンカン、バカヤロー」と言いたくなるけどね…。

 

作品評価★★★

(久保田直は新鋭監督かと思ったら、俺とあんまり年齢も変らぬ演出経験も豊富な人物で、このレベルの作品を撮れても全然おかしくない感じ。長内美那子とか田島令子とか、俺が少年時代から見てきた人と久々に再会できたのも良かった。白石加代子は最早年齢不詳だが)

 

映画四方山話その988~『東映任侠映画とその時代』(山平重樹・著 株式会社・清流社Publico)

 この2年くらい東映やくざ映画関連の書籍が数多く出版されている気がする。当方が学術的な映画本の購入を躊躇う様になっているからそう思えるのかもしれないが、今の東映の変わり果てた姿を目の当たりにする事でかつての東映に郷愁を寄せ、その時代の熱さを忘れ難い人が一定数存在するのは間違いない事であろう。

 本書もそういう類の一冊。筆者は「極道系ライター」として大変な実績を持ち、Vシネマの原作なども手掛けている。そういう意味で言えば東映任侠映画シンパになって当然の人だろう。本書は書店で販売された『東映任侠映画 傑作DVDコレクション』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)の解説書に14~19年まで連載した文章を一部改筆した物だとか。任侠映画が誕生した1963年からやくざ映画が変遷を重ねていく90年代までの流れを箇条書き的に書いており、東映やくざ映画入門的な本とも言えるだろう。

 冒頭60年代後半、深夜興行の映画館では全共闘の学生たちがスクリーンの向こうで躍動する鶴田浩二や高倉健に拍手喝采、「待ってました」と掛け声をかけ映画館が「祭り空間」と化していた…と臨場感たっぷりに書いているが、1953年生まれの筆者はその場にはいなかった。言わば又聴きで記述している訳だ。東映やくざ映画の造詣が深かった故・山根貞男は、映画評論家になる前友人と連れ立って新宿の映画館の土曜日深夜興行で東映任侠映画を良く観たが、前述した様な風景に出くわした事は一度もなかったという。客層の殆どを占めていたのは中小企業の工場で働く工員風な人。仕事帰りらしい水商売風な女性の姿もチラチラあったが、ゲバ棒学生ぽい人はほぼ見当たらないかったという。

 当時は週休二日制など無く、土曜日は午前中で終業する会社も大手企業ぐらいであった。中小企業勤めの人は土曜日も定時まで働いてやっと仕事から解放され、一杯ひっかけてから映画館に現れた…という事ではないか? 全共闘学生にとって安部徹や天津敏は「体制側」だったかもしれないが、彼等は嫌味な上司や汗水垂らす社員を横目にゴルフ三昧の社長を悪役に投影していたのかもしれない。

 本書は任侠映画の系譜を、学生運動や『博奕打ち・総長賭博』(68)を絶賛した三島由紀夫の行動と交錯して語っていく構成になっており、それが故に「任侠映画の最大の理解者は全共闘の学生と三島」という結論が必要になったのかもしれないけど、任侠映画を本当の意味で支えたのは中小企業の労働者などの「声なき観客」の方だったのではないかと俺は思う。彼らの熱い支持があってこそ任侠映画は大成功を治めたのだ。幾ら全共闘や三島が任侠映画を絶賛したからといって、それが興行成績にまで及ぶ物ではないだろうし。

 DVDの解説書という枠組みもあっての事だろうが、俺みたいなショボクレ映画マニアにとっては、本書で書かれた任侠映画についての事柄に新しい発見みたいな物は正直あまりなかったのだが、その中で唯一刮目させられたのは著者と個人的な付き合いもあったプロデューサー、俊藤宏滋(藤純子の父)への多大なるシンパシー。最終章を「俊藤浩滋と東映の黄金時代」と銘打ち、丸ごと俊藤にスポットライトを当てている。

『神戸国際ギャング』(75)で高倉健が演じた主人公のモデルであるやくざと親友だった俊藤は一般企業のサラリーマン時代から賭場に出入りしており、他のやくざとの付き合いも多かった。いい仲になった元芸者のマダムが経営するバーの客だったマキノ雅弘と知り合いになった事から映画界と関わりを持つ様になり、やがて東映入り。マキノ雅弘の『次郎長三国志』(64)を手掛けた後65~72年までに膨大な数の映画をプロデュース。その殆どが任侠映画だった。

 東映の経営陣や作り手の監督、脚本家の多くは一流大学卒のエリート。プロ野球で言えばドラフト上位指名の選手で俊藤はドラフト外指名選手…というべき叩き上げの映画人だ。そんな彼が「手掛けた9割の映画はヒットした」と豪語する程のヒットメーカーになっていった過程が、本書に熱い共感を持って書かれてある

 彼が手掛けた任侠映画の「量」に今更ながら圧倒される。「質より量」とまでは言わねども、任侠映画は、製作的にはプログラムピクチャー全盛時代ならではの「量」に支えられていた。やがて東映は実録路線を経て77年から一本立て大作やくざ映画を製作していく事になるのだが「量」を失った時点で、やくざ映画のエネルギーは下降線を辿るしかなかったと言わざるを得ない。

「任侠映画は奇麗事」という批判は観客側のみならず東映の会社内にもあった。ただ俊藤が任侠映画に託したのは奇麗事というより「やくざの本来あるべき姿」だったのではないか? 本物のやくざを知る人間ならではの矜持が俊藤にはあり、そして死ぬ間際まで任侠映画に拘った。正に「任侠映画バカ一代」な人生。そういう個性的なプロデューサーも今の日本映画界にはいなくなった。

 本書を読みながら東映任侠映画が発した独特の映画世界への追憶が募ると共に、現在の日本映画に任侠映画全盛時には存在した「大衆映画」という枠組みが現在も有り得るのか否か、なんて事を考えてしまった原達也であった…。