愛知県猪狩島。圭太(藤原竜也)は妻子と共に生まれ育ったこの島に根を下ろして黒イチジクの栽培に成功。TVでも紹介され島の経済発展に期待がかかっている。そんなある日娘が家から突如いなくなった為親友の猟師・純(松山ケンイチ)、二人の後輩で帰郷し警官としてこの街の交番に勤務する事になった真一郎(神木隆之介)と血眼になって探したら、余所者の男が連れ出した事が判明。怒りに震えた圭太は男と揉みあいになり男を殺してしまう。唖然とする3人…。
硬派から軟派映画まで何でもござれ、去年は何と5本の監督作品が公開された廣木隆一。今年は休養に宛ててるのか公開作品は一本もないが…。その5本の内最も早く公開されたのが本作。漫画誌『グランドジャンプ』に18~20年まで連載された筒井哲也の同名漫画を脚色。平和その物だった小島に見知らぬ男が現れた事で、重大なトラブルに巻き込まれていく親友3人組…。大物藤原竜也、松山ケンイチに「若手」の部類に入る?神木隆之介が加わった豪華共演。近頃全く顔を見てなかった永瀬正敏も冷静沈着な刑事役で出演し、他に黒木華、伊藤歩、鶴田真由、大ベテランの柄本明、余貴美子などの共演。日本テレビ絡みの製作体制。
自首するという圭太を純は「島と妻子の事を考えろ」と思い止まらせ、真一郎も押し切れられて死体を猪の死骸を保管する冷蔵庫に一旦隠す。男の目撃者は3人以外におらず死体を隠せば何とか凌げると思ったが、男と一緒に来島していた保護司の他殺体が発見された事で、元受刑者の男の来島も判ってしまった。県警刑事の捜査の目を盗んで3人は作業小屋に死体を移す。庄吉老人に目撃されたがボケているから大丈夫だと高を括っていたら、庄吉は女町長に連絡。作業小屋にやって来た町長の高慢ちきな態度にカッときた純は鉈で町長を殺し、その巻き添えを食った庄吉も町長のスタンガンでショック死。死体が3つになってしまって…。
原作を大幅に脚色してある模様。自首すれば情状酌量で罪も軽く済んだ所を、それを回避した事で個人の犯罪が「島の為」という理屈で、町ぐるみの犯罪隠しにまで発展していくのが、旧来の「ムラ」意識を彷彿させて気持ち悪い。殺した男が正真正銘のクズだけに、最初の選択を誤ったというしかないのだが…。そんな中描かれるべきなのは事件に関わった3人の心理。最初島の為に自首を思い止まった圭太だが、いつしか自分と家族の保身が第一となっていき、真一郎は職務と友情の板挟みになって悩む。そして純は…。その辺がもっと鮮明に描写されれば傑作になったかもしれないが。神木隆之介が好演、その母(鶴田)の慟哭が痛ましい。
作品評価★★★
(ある事がきっかけで全てが露見してしまう訳だけど、冷静に考えればそれが可能なのはある人物以外いない事は普通に分かるはず。露見後圭太がその事をどう思っているのかが不明瞭にしか描かれていないのが気になる。それに気付かない程のお人好しなのかしらん)
映画四方山話その979~『文藝別冊 深作欣二 現場を生きた、仁義なき映画人生』(春日太一責任編集 株式会社河出書房新社・刊)
今年は『仁義なき戦い』1作目の公開から半世紀目に当たる年であった。その間膨大な数の日本映画を見てきた訳だけど、はっきり言って面白さという点でここ50年『仁義なき戦い』シリーズ(但し4作目まで)を上回る物はなかった…というのが実感。「暴力とエロ」が映画界を席巻するという、今からすると考えられない状況下だからこそ製作可能だった『仁義なき戦い』。その頃の一種憑かれた様な狂おしさは、今の映画界には存在しない。
本書は『仁義なき戦い』の生みの親である深作欣二監督とはどういう人物だったのかを彼の活躍していた時代を知らない人と、俺みたいな古の日本映画への想いを断ちきれない人向けに編集された本であると言えるだろう。本書の出版後亡くなった千葉真一を始め深作作品に出演した俳優たち、スタッフとして作品関わった人たちにインタビューを敢行、或いは他の本のインタビューで深作に触れた部分を抜粋して紹介。
インタビューの登場人物は二つに分類される。一つは深作に心酔した「シンパ」的な人々(助監督やプロデューサのみならずキャメラマン、証明技師、スクリプター、殺陣師といった関係者も証言)、もう一つは深作と共働しつつ彼を客観的に見れる立場だった人(高田宏治、木村大作、そして深作健太など)。前者ばかりだと読み物としてはある種のミーハー本になってしまう可能性もあったから、この人選は正しかったと思う。
彼等が語る深作欣二像は、ともかく映画撮影が三度の飯よりも好きだった人という事に尽きる。東映という製作配給会社がまたいい意味でざっくばらんで、こういう映画撮影ジャンキーの存在を面白がっている節もあった。シーン全体の撮り直しなど日常茶飯事、撮影が深夜に延びる毎に元気になる深作に付くスタッフは、当然厳しい肉体的な消耗を味わう事になるのだが、いつしかそれに慣らされていき、普通なら及び腰になりそうな無許可の公道撮影も当たり前になっていく…。実録路線時代の深作は、そういう周囲の人たちを自分のペースに巻き込んでいく、独特な人懐っこさがあったと。鬼才監督にありがちな撮影現場以外ではいい人、でも一旦撮影に入ると鬼に豹変という事は一切なく、助監督を頭越しに怒鳴るなんて事も見た事がなかったとの証言も。それは結構意外ではあったが。
そんな深作も自分が火付け役であった東映実録路線が終焉すると、それまで手掛けた経験がなかった大作路線のエース監督として起用される事に。時代劇『柳生一族の陰謀』(78)角川映画の大作『復活の日』(80)『蒲田行進曲』(82)、『道頓堀川』(83)から始まる文芸映画群…。どの作品にもかつての深作らしさは見受けられず、俺も困惑した物だ。実際本書で紹介される深作のこの時期の監督作品についてのコメントは、別の本では全く反対の事を言ってるケースもあり、どこまで本音と取っていいのか図りかねる部分はある。
その結果深作の興味が映画そのものから、自分と共働してくれる人物へと移り変わっていった時期が、深作の80年代以降だったのではないだろうか。『柳生~』から『魔界転生』(81)『里見八犬伝』(83)『必殺4』(87)で共働した千葉真一、その愛弟子で素晴らしい身体能力を持った真田広之、志穂美悦子などの『JAC(ジャパン・アクション・クラブ)』勢、そして当時最高の美人女優とされた松坂慶子と、スキャンダルのどん底から深作作品でカムバックした荻野目慶子。彼女たちへの拘りがやがて私生活上の関係にまで発展した事は良く知られた話だ。
本書を読んで、残念ながら80年以降の深作は、自分が撮りたいと思う企画は殆ど撮る機会に恵まれなかった様に感じた。80年以降で言えば自分の意志で撮った作品は『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(94)と『バトル・ロワイヤル』(00)の二本だけだと思う。本書で初めて知ったのだが松竹では労働法に合わせて、前日の撮影終了から最低8時間開けないと撮影が再開できない決まりが徹底されていたとか。徹夜大好き撮影大好きの深作監督としては、やる気が削がれる所もあったのかもしれない。
本書のしんがりに登場する深作健太インタビューでは映画撮影を離れた素の深作、そして亡くなる寸前の仔細にも当然触れられており、これは普通にしんみりさせられた。73年の生涯は映画監督としては短い。まだまだやりたい企画は有ったと思うし『バトル・ロワイヤル』で共働した若い俳優たちとの再仕事も見てみたかった。
詮無い事かもしれないけど、どうしても取材対象が東映関係者に限られるという事情は分かるが、深作が唯一「普通の人」を描いた『君が若者なら』(70)、深作のライフワークだった戦争批判、その時の為政者への怒りを叩きつけた『軍旗はためく下に』(72)に殆ど触れられていないのは残念。それから現実の過激派の内ゲバを『仁義なき戦い』の抗争になぞえて論評するトンデモ文は、本書のテーマからしても不要であった。