ビートルズを筆頭とした英国ロック勢の攻勢に対抗した様に、米国では60年代後半よりサンフランシスコを中心に「フラワームーヴメント」を背景にしたロック文化が興隆する。それはヒッピー思想やドラッグと深く結びついていた。その頂点の中で行われたのが1969年8月の『ウッドストック・フェスティバル』。その興奮は多少のタイムラグがありながらも日本のロック界に影響を与えたはずだが、それが大きな波になる事はなかった。

 その理由は英米のロックは「カウンター・カルチャー」として注目されたが、日本においてはあくまで「憧憬」のレベルで扱われたからである。黎明期の日本のロック界の面子は芸能界に搾取され本意の活動が出来なかったGSブームの残党のリベンジ勢と、比較的裕福な家庭に育った大学のパーティ―バンド出身者にほぼ二分されていた。日本の「戦争を知らない子供たち」には米国ヒッピーの反戦思想を切実な物と捉えられる程ではなかったし、ヒッピーに付き物のドラッグ文化は70年2月ロックミュージカル『ヘアー』日本語版上演関係者(出演者の加橋かつみなど)の大麻取締法違反容疑での逮捕により「社会悪」として、世間に広く認定されてしまったのであった。

 しかしごく少数だが、そういう趨勢にはお構いなくフリーダムに音楽を志したミュージシャンが全く皆無という訳ではない。彼らは所謂メジャーな音楽界とは全く別な次元で自らの音楽像を形作ろうと試みたのであった。

 

『村八分』(山口富士夫・著 株式会社K&B パブリッシャーズ・刊)

 長らく伝説的存在であったロックバンド『村八分』。長年残された音源がエレックから発売された解散直前の2枚組ライヴ盤しかなかったので、活動の全体像は一般的には知る由もなかったが、90年に未発表スタジオ録音音源が発売された事と、ヴォーカルのチャー坊(柴田和志)が94年に亡くなった事で再評価が進み、ゼロ年代には他の音源も次々に発掘発売。それに合わせ村八分のギタリストだった山口富士夫がインタビューに答えるという形式で、村八分を回想する本書が05年に発売された。

 山口富士夫は実力派GSバンドとして知られた『ザ・ダイナマイツ』のメンバーだったが例の如く事務所に搾取され放題で、69年末で解散後はそういう既成の力を頼らず自力で音楽活動を展開する事を決意、知人に紹介された米国帰りで音楽活動未経験のチャー坊と意気投合し、彼をヴォーカリストに仕立て東京とチャー坊の地元である京都を行き来しながらバンド活動を展開。そのバンドが『村八分』と名乗り、そのカリスマ性と傍若無人さに溢れたライヴパフォーマンスが話題となっていく。

 聞き手(女優の関根恵子、現・高橋惠子の愛人だった河村季里)は特にドラッグ関連の事に興味が強かったらしく、それに応えて富士夫はドラッグ体験を大胆にカミングアウト。ライヴではキメて出演する事が日常茶飯事になっていた…と言われるととんでもねえなと思う人が多いんだろうけど、ショーケン(萩原健一)も逮捕されるまでライヴ前は必ずマリファナを喫煙していたと告白してるから、似た様な事をしてる連中は他にもいたのかもしれない。

 富士夫はバンドや人間関係をファミリー、或いはコミューン的に捉える人で、その意味では米国のミュージシャン風な発想持ち主と言えるかもしれない。クスリはメンバー間の和を取り持つ、或いは音楽的な高揚感を得る為に使用していた…というのも米国的。

 所謂「不良系バンド」ならではのフリーダムなエピソードが語られていくのだが、富士夫には純粋な音楽好きという一面もあり、村八分とは音楽的共通点は無い『はっぴいえんど』の鈴木茂のギターを高く評価したり(晩年には鈴木とライヴ共演)、GS界のスターが集って結成された『PYG』が観客から大ブーイングを浴びているのを見て「いいバンドなのに…」と同情したりしている。

 そういうプロミューシャンならではの矜持を持った富士夫と、気分の上下が激しいチャー坊の間を上手く取り持つ者はいなかったし、「最高のバンド」と自称する彼らにふさわしい活躍の場への橋渡しをする人物も現れず、村八分はなしくずし的に73年夏には解散。「気のいい仲間たち」の名前は本書にいっぱい登場してくるが、音楽界その物とは無縁な人ばかりである。

「村八分」の解散、チャー坊の死に関しても山口富士夫は意外と素っ気ない。解散から20年以上経ちコミューン的発想だけでバンドはやれる物ではないという事が身に染みて判ったのだろう。彼にとって本書のインタビューを受ける事で、まだ心の裡でモヤモヤが残っていたかもしれない「村八分」に一区切りつける事になったんだと思う。

 

 

『キープ・オン!』(南正人・著 星雲社・刊)

 2021年ライブ中に斃れ亡くなった南正人。「リアル・ヒッピー・シンガー」として死の寸前まで全国を股にかけライヴ活動をしており、そして自他とも認めるマリファナ解禁論者でもあった。ただ彼の場合山口富士夫と違って音楽活動の為にハッパをやっていたのではなく、もっと根源的な自身の生き方に関わる拘りだったと言える。

 本書は05年に発売された自叙伝。世界放浪旅行から帰国した南はギターを弾いて人前で唄いだし、人種を越えた女性との「ラブ&ピース」な交流を持つ。彼の裡にあるのは何者にも縛られない生き方。「歌」もまたその為の一つの手段でしかない。だからプロ歌手になるという発想は当初からなく、歌い手仲間の高田渡が『URCレコード』と契約した事を「金に走った」と厳しく批判していた事もあった。

 本書の前半は南の自由人ならではのエピソードが回想されていて愉しく読める。他のシンガーにもカバーされた名曲『ヨコスカブルース』が誕生した経緯、デビューアルバム『回帰線』(70)ではスタジオにいる人全員でハッパをやってレコーディングに臨んだとか、マリファナはいい物だからとロック喫茶で初対面の人にロハで配っていたなどなど。勿論こういう人物を警察が放置しておく訳がなく、南正人は逮捕され裁判闘争に持ち込むが実刑判決が出て刑務所に収容される。

 刑務所では、芸能人や著名人は何故か特別扱いされて独居房生活が許されるらしいのだが「無名歌手」である南正人は雑居房生活だ。やくざなど付き合いは避けて通りたい連中との共同生活はシビアだが、そこでも南正人は持ち前の楽天性な性格から何とかギリギリ心の平衡を保つ事ができた。個人的にはこのパートが本書一番の読みどころ。ここまで詳細に懲役生活を描写した書物は滅多にないだろう。

 こういう自由人がやがて辿り着くのはエコロジー思想というのは大方予想がつく感じで、それが前面に出てくる本書の後半部は、ドブネズミ同然の都会生活を長年送って来た俺には、はっきり言ってあんまり面白くなかった。ただ1988年8月、南正人が主宰者側になって長野県で行われた野外コンサート『いのちの祭り』には、同じハッパ仲間ながら表立った交流がなかった山口富士夫が出演し観客を熱狂させた事が記述されている。このライヴ以降富士夫は反原発論者になったとか。

『ニュー・ミュージック・マガジン』(ミュージック・マガジン)の編集長・中村とうようからは、ダメミュージシャンの典型として度々槍玉に挙げられてきた南正人だが、音楽活動とライフスタイルが一体化させていた、日本の音楽界では数少ない人ではあったと思う。

 

 

 個人的体験からするとLSDはヤバいと思ったがマリファナは無害、というより「酒」による弊害の方が何十倍も酷いと思う。俺ももう少しで中島らもの後追いになる所だった…。ドラッグによる意識改革とかにもあまり興味はないけど、ただドラッグの影響化にあった60年代の欧米のロックを愛聴してる人間が、ドラッグをただ悪と決めつけるのはおかしい気がするし、定期的にミュージシャンの逮捕劇が繰り返されるのも、一度はどういう物か試してみたいという「普通の気持ち」の顕れかもしれない。勿論不法である以上代償を払う覚悟はしておかなくてはならないが…。

 山口富士夫も南正人も故人となり、17年には富士夫と交流があった『フールズ』の伊藤耕が収監中の刑務所内で誤診によって死亡、21年には富士夫が一時メンバーとして在籍した伝説的トリップ系ロックバンド『裸のラリーズ』の水谷孝の死去の報せが公に。日本においてのフリーダム系ロックの系譜はもう根絶やしされた様に思えるが、果たして…。