音楽や映画について、俺は常に多様性を求め続けている。「俺は〇〇しか認めない」的な物言いが苦手だ。それでなくても日本人はマジョリティな方向に倣え的な傾向があり、それが現在の社会情勢にも深い影響を及ぼしているとも考えられる。

『URCレコード』も当初は歌謡曲やカレッジ・フォ―クに対するアンチというより、こういう歌もあて然るべきなのだ…と多様性を主張し発足したレーベルだった。だがそのURCレコードも72年を境に一気に発信力が低下してしまい、その後URCレコードからデビューしたミュージシャンたちに知名度的なハンデを与える事になってしまった。

 古川豪もそんな公に語られるフォ―クの歴史から埋もれがちなシンガー・ソングライターの一人。生まれも育ちも京都で「関西フォ―ク」の影響をモロに受けた世代。高校生頃まで音楽はあくまで趣味…と思っていたが「べ平連」の活動を通して同年代のシンガーたちと知り合い、人前で唄う様になる。その頃の憤りを「猥歌」で表現した彼の一連の歌に注目した写真家・大塚努のバックアップを受け71年に自主制作ライヴ盤『フルッチンの歌』を発表。関西フォ―クムーブメントが退潮した後の関西を中心に岡林信康、豊田勇造、中山ラビといった人たちとステージを共にし、その一方で古い米国音楽への興味からバンジョーの演奏を習得、ギターのみならずバンジョーの弾き語りも得意とする様に。

 72年京都の文化発信地になった喫茶店『ほんやら洞』の設立にも参加し開店スタッフに。そのほんやら洞でバイトとして働いていた時URCからデビューの話があり、73年6~8月に東京でレコーディングされ10月に発売されたのが、さっき聴いた『羅針盤で星占いはできない』である。ディレクターは『ザ・ディランⅡ』前から古川豪と知り合いだったギタリストの永井洋。アルバムジャケに若き日の古川と映っている店がほんやら洞で、2015年火災事故で全焼するまで営業していたそうだ。

 

 アナログA面1曲目の短いインストナンバーを経て2曲目『トカトントン』へ。『フルッチンの歌』にも収録されていた曲のスタジオ録音だが猥歌ではなく、生まれ育った環境への想い入れが唄われている。親や社会に反抗し家を出なければと思いつつも、西陣織の機の音(トカトントン)に象徴される京都という土地柄への想いがそれを思い止まらせた…という己の回顧ソング。ギターの弾き語りで唄われる名曲である。バックでフィドルを付けているのは本アルバム直後『かぐや姫』の『神田川』でも弾く事になる当時『はちみつぱい』の武川雅寛(現・ムーンライダーズ)

 3曲目『生身の体は死にたえて』はバンジョーとフィドルによる、英国のトラッドミュージック的なニュアンスがある演奏。言葉や思想ばかりが先行しそれを遮って行動する事への限界や諦観を語った詞は、この時代ならではの深刻さがある。

 4曲目『腰に力がはいりすぎ』は古川のギター弾き語り。何事にも熱くなりすぎな自分の性格を自嘲的に分析している様な詞。その為虚勢を張る事が多く結局馬鹿を見るのは自分なのだ…とはまるでかつての俺みたいだ(涙) 

 5曲目『このマのあたり』は古川のバンジョーと豊田勇造のギターとのデュオ演奏。SF小説風な一節から始まるが段々歌詞は下ネタ方面に移行して…。京都という一種閉鎖的な都市で幻視した風景を不可思議に表現した詞。豊田も合いの手風にコーラスで加わる。

 A面最後の曲『某英雄の退却』は古いアイルランド民謡を演奏した短いインスト曲で、ギターとバイオリンの合奏。「某英雄」とはナポレオンの事らしい。

 

 アナログ面1曲目『キャノンボール・レース』もインストで、古川とフィドルを弾いている大塚努が共作。古川はハープで列車の走る音を表現しており、バンジョーに負けじと腕前は達者。

 2曲目『ホーボーの子守唄』はアロー・ガスリーが唄って有名になった、父親ウディ・ガスリーがレパートリーにしていた曲で、古川が自己流の日本語詞を付けた。76年にNHK教育テレビ(現・Eテレ)で放映された『若い広場』の『フォ―クソングは今』的な番組に古川は西岡たかし、大塚まさじ、中島光一らと出演し、エンディングでバンジョーを弾きながらこの曲を唄っていた。レコーディングには豊田、松田幸一(マウスハープ、『ラストショー』など多くのバンドを歴任) 和田博巳(ベース、はちみつぱい)、コーラスで洪栄龍他ロックバンド『乱魔堂』の面々が加わっている。明日は明日の風が吹く的なのんびりした歌詞がグッド…である。

 3曲目『ドサまわり』は古川のギター弾き語り曲だが、歌詞はまるでボブ・ディランの如く暗喩に充ちており彼の曲者ぶりが発揮されている。ライヴで何処かの田舎町に行った時の体験が元になっているのかもしれないが…。

 4曲目『羅針盤では星占いはできない』はトーキングブルーススタイルで、ほんやら洞で店番していたら旧友が現れ店に居つこうとするので大弱り…というノンフイクション的な光景が展開される。ユーモラスな表現でありながらも、時代の森の中で迷ってしまいそこから抜け出せないでいる者に対する憐れみと、突き放す様なクールさが垣間見える詞。

 最後の有名民謡曲をアレンジした『インストルメンタル・フォー・ユー』で古川はダルシマーを演奏。レコーディングでこの楽器を使用した初めての日本人ミュージシャンだったと思う。ギターを弾いているのは永井洋。

 

 初めてのレコーディングだった故に慣れない事が多かった…と古川自身が述懐している様に、必ずしも満足できる出来栄えではなかったアルバム。確かに短めのインスト曲4曲の収録は多過ぎるし、2曲に絞って長めに演奏しその分他のオリジナル曲を追加すればベターだったのでは…と思ったりもする。

 だがA-2やB-2の様な未だにライヴで唄い続けている代表曲が収録されているし、諧謔さとシビアさを含んだその歌詞世界は他のURCシンガーとも一味違うオンリーワンな物である…と断言できる。「闘争の季節」が過ぎ去った73年、古川豪自身もまだ生き方を探しあぐねている時期だったのかもしれない。

 本アルバム発表後古川豪はバンジョー奏者として音楽仲間のレコーディングに参加する一方で、76年に3枚目のアルバム『原子力時代の物語』を発表。しかしURCと提携していた『エレック・レコード』の倒産で殆ど黙殺されてしまった。以降は実家の薬局を継ぎながら原発問題や環境問題、京都の町起こし計画など参加をしつつ、シンガー活動を続け今に至っている。フォ―クブームで一山当てた人は多かったけど、そういう人たちと共に古川豪の様な商業性とは離れた日常に根差した活動をしてきた人をも認めてこそ、音楽の多様化であると言い切れるのだ。