千尋(染谷将太)と直也(石田法嗣)は高校生で、同じモダンダンスのレッスンスタジオに通う間柄。今度の公演ではペアを組む事になり練習に余念がない。お互い上半身裸になり相手の体に触れるか触れないかの距離で向き合う二人。千尋は父親が死んだ事で、今は河川水の検査員をしている腹違いの兄・斗吾(渋川清彦)に引き取られて暮らしている。直也には梓という同級生のガールフレンドがいるのだが、二人の仲は一件近いようで距離がある微妙な感じ…。

 

『ドライブ・マイ・カー』(21)で一躍有名になった濱口竜介は、東日本大震災をテーマにしたドキュメンタリー映画『東北記録映画三部作』(11)を共同監督した後、長編の劇映画の製作を想定していた様だ。そのプロローグ代わりに製作したのがPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で上映された本作。義理の兄と暮らす事になった高校生の主人公の複雑な心理と行動を追った1時間弱の中編作品。園子温の『ヒミズ』(13)で二階堂ふみとW主演し、若手俳優として注目を浴び始めていた染谷将太と、濱口作品には『THE DEEPS』に続く出演となった石田法嗣の共演。やはり濱口作品と縁が深い渋川清彦、村上淳、常連女優の河井青葉が脇を固めている。

 

 直也と梓の関係を見てイラつく物を感じる千尋。斗吾は千尋が弟である事を受け止め親身になって面倒を見ている積りだが、千尋はそういう関係を重荷に感じており、高校を卒業したら斗吾のアパートを出て自立する積りだった。夜川の土手でダンスの自主練習をしていた千尋に梓が声をかけてくる。誘惑する素振りを見せてくる梓に思わず千尋はカッとし、衝動的に首を絞めて殺してしまった。その後同じ場所でやはり自主練をしに来た直也は梓の死体を発見。犯人は千尋だと直感したがそれを隠し死体の第一発見者として警察に連絡する。事情聴取を受けた後帰宅するが、警察が再び事情を訊きたいとスタジオに現れた時、直也は刑事に…。

 

 プロローグという事で登場人物の人間関係のあらましが描かれていく。千尋は多分同性愛者で直也を愛しており、直也もそれを意識している。斗吾は今の仕事に就く前は「反社」の人間だったらしい事が、体に入れたタトゥーから伺い知れる。斗吾と同僚(村上)との関係も思わせぶり風に描かれているが、詳細は本作だけでは分からない。半裸の千尋と直也のダンスパフォーマンスがお互いの関係性、更には感情に行き違いが悲劇を巻き起こしそうな予感を孕んでおり、予告編としての役割は十分に効果的だとは思うのだが…。所謂「自主映画」でもプロの俳優を起用する濱口監督の作品の対する姿勢には、真摯な物を感じる…それが結論。

 

作品評価★★

(結局「本編」の製作は頓挫したので本作の評価は実質的には不可能。その後濱口監督は素人俳優を起用した『ハッピーアワー』を監督しており、その時点ではプロ俳優の演技に興味を抱けなくなっていたのかもしれない。劇中で登場する「川向う」という台詞が気になったが…)

 

映画四方山話その883~日比野幸子氏と映画『杳子』

 昭和が遠い過去になってしまった今、昭和に活躍した映画人たちが次々と亡くなっていくのは致し方ないとは思うけど、今年の『キネマ旬報』ベストテン発表特別号を読むと、俺が知らなかった映画人の訃報があまりにもあり過ぎて戸惑ってしまう。結局多くの人が知る得る映画人の訃報は、一般新聞に訃報記事が載るレベルが関の山…という事だろうか。

 そんな数多い訃報の中で俺が驚いたのは「自主映画の母」と呼ばれた日比野幸子氏の死だ。ある時期俺は日比野氏と始終顔を合わせていた機会があったのだが、会話を交わした事は一度もなかった。日比野氏には俺みたいなチンピラ映画マニアには容易に入り込めない様なバリアみたいな物を感じており、関りらしい関りもなく終わりそれ以来名前を聞く機会もなく、今回のキネマ旬報の訃報記事が久々の「再会」という事になってしまったのだが…。

 日比野氏の経歴や功績に関してはキネマ旬報の追悼記事に詳細に書かれており、それに付け加える事は全く無いのでここでは触れない。1976年に発売されたキネマ旬報増刊『日本映画監督全集』では、自主映画監督の紹介文の大部分を日比野氏が執筆していた。ネットで画像検索すると81年の『ぴあフィルムフェスティバル』自主映画コンテスト審査員会議の写真があり、錚々たる審査員の端っこに日比野氏が映っている。このメンバー中紅一点ながら激論を交わした日比野氏の度胸というのも相当な物だろう。

 日比野氏で思い出されるのは、77年に製作された古井由吉の芥川賞受賞小説を映画化した『杳子』。世界的なモデル・山口小夜子が主役を演じた、古井由吉の小説文体をそのまんま映像化しようとした作品で、正直映画ならではの起爆剤的なインパクトを欠いた印象は否めなかったが、個人的には俺が生まれて初めて観た自主映画だったので思い出深い作品ではある。日比野氏は『杳子』のプロデューサーだったがどうしても製作資金が集まらず、止む無く日比野氏が個人でサラ金会社から借りて資金調達したと聞く。

 俺が『杳子』を観たのは金沢在住時代の翌78年。春先に突然『金沢セント・シネマ』という自主上映専門館が立ち上がり、その目玉として『杳子』の一ヵ月ロードショーを敢行。保守性の強い地方都市で自主上映館を立ち上げる自体無謀だというのに、いきなり無名監督の作品をロングラン公開する暴挙?にも驚いた。チンピラ映研大学生だった俺もその流れに巻き込まれ、セントシネマに始終顔を出す数少ない常連客に。

 金沢でのロードショー公開の興収がどうだったかまでは知らないが、結果的に『杳子』は自主映画界では異例のヒット作品となり…というか、それまで自主映画レベルで興行的にヒットした事例は殆どなかったはずだ。おかげでサラ金への返済も滞りなく済んで一見落着。日比野氏はその後ATG映画『九月の冗談クラブバンド』(82)のプロデューサーも務め、自主映画界で活躍していた長崎俊一監督のプロデビューにも一役買う事になったのだ。

 『杳子』には同じ監督の前作に出演していた縁で、絵沢萌子がワンシーン特別出演していた。納得すればマイナー作品の出演も厭わなかったという、彼女らしい行動だ。やはり超保守的な地方都市では自主上映専門館の定着は早過ぎたと言え、鳴り物入りで開館した金沢セントシネマは僅か九カ月ぐらいで閉館した。その閉館セレモニーには自主映画時代日比野氏と縁が深かった大森一樹が出席している。日比野氏、絵沢萌子、大森監督と去年亡くなった三人の死は、そんな繋がりで俺の裡では同一線上に記憶されている。