宇宙飛行士のロイ・マクブロイド少佐(ブラッド・ピット)は、大規模なサージ電流による爆発事故に巻き込まれたが九死に一生を得るが、アメリカ宇宙軍上層部から極秘に招集を受けた。上層部の説明によるとサージは16年前に連絡を絶った、地球外生物探索船計画『リマ』で用いられた反物質装置にがサージを引き起こした可能性が強いという。その計画のリーダーが、高名な宇宙飛行士で死んだされていたロイの父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)だった…。

 

 この所話題作の主演が相次いでいるブラッド・ピットが主演兼共同プロデュ―サーも務めたSF作品。火星に人類の宇宙基地がある遠い未来を舞台に、極秘指令を与えられもう死んでいたと思っていた父と再会を目指す主人公をブラッド・ピットが演じる。監督のジェームズ・グレイは随分前に『裏切り者』(00)という作品を観た事があったな。共演は日本の缶コーヒーのCMに現在も出演し続けているトミー・リー・ジョーンズ、アカデミー主演女優賞ノミネート経験もあるアイルランドとエチオピアのハーフ女優ルース・ネッガ、実父が主題歌を唄った『アルマケドン』(98)のヒロイン役で大ブレイクしたリヴ・タイラー、大ベテランのドナルド・サザーランドなど。

 

 父へのメッセンジャー役としてロイは監視役のプルーイット大佐と宇宙軍火星地下基地に向かい、そこでクリフォードが留まっているらしい海王星付近への交信を試みる事に。大佐は父の元同僚で地球外生物の存在を信じる父と喧嘩別れしていた。二人はまず月のロケット発射基地を目指す。月に着き謎の略奪団の襲撃を受けロイは何とか無償で基地に辿り着いたが大佐は負傷。大佐は必要とあらば父を殺害する任務を受けていた。大佐がリタイアした事で父の殺害はロイの役割となってしまった。基地から火星行きのロケットに乗り換え、またトラブルに遭いながら火星基地に到着したロイは、与えられた文面を父に向けてメッセージするが…。

 

  劇中に宇宙用語というかSF用語というか、超文系の俺には馴染みにくいワードが飛び交って慣れるまでは苦労するのだが、ひょんな事から死んだと思っていた父を殺害する事も想定して旅に出る男のSF版ロードムービーと言える。複雑な感情に駆られ続ける主人公に襲い掛かる攻撃の数々。それを凌いでまでも何故俺は父と会わないといけないのかという自問自答の主人公の心理劇ドラマだ。ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランドという経験豊富な役者陣の好演は評価していいだろう。スター映画の割には相当に地味な内容だしヒロインの存在感も希薄、でもSF映画らしからぬアナログ感のあるテーマに好感持てた。

 

作品評価★★★

(本作を観てまずストーリーが『地獄の黙示録』に似ていると思ったのは俺ぐらいか…と考えていたら、ブラッド・ピットが同様の事を頭で思い浮かべながら演じていたと発言。そんな風な「考えさせられるSF映画」って近頃殆ど無い様な気もするし、まあまあいいかなレベルの出来)

 

映画四方山話その882~『Vシネマ最期の弾痕~骨は雨に濡れて~』(谷岡雅樹・著 株式会社ぺりかん社・刊)

 西村潔、小池要之助、池田敏春。今の日本映画マニアと称する人でこの三人の名前を並べて胸の痛みを感じる人はどれ程存在するのか? 三者とも映画業界では演出の腕には定評ある監督だったが各々の理由で映画界から遠ざかり、最終的にはVシネマの世界に辿り着いたのだ。

 Vシネマという世界は「映画の様で映画ではない」というか暴力、エロ、ギャンブルという野郎の三大煩悩を描く事で90年代初頭に誕生して定着、綿々と製作が続いている。現在はレンタル市場よりも配信に活路を見い出し再評価されている…と本書では書かれているが。

 筆者は俺の知る限り唯一の「Vシネマ評論家」だが『キネマ旬報』や『映画芸術』にも執筆する映画評論家でもある。そんな筆者がVシネマ界を通して出会った「盟友」たちの墓碑代わりに文章を綴り、その想いを吐露したのが本書(その筆者の想いは父や親戚、子供の頃の知人といった極私的な部分にまで及んでいるが)。今生きている人については一切拘っていない所が凄い。

 筆者はVシネ評論家としてVシネ作品が「映画」扱いされておらず、俳優の死亡記事に出演したVシネ作品が一切書かれてない事に怒っているが、でも本書に触れられている監督や脚本家たちの殆どが「ホンペン」に拘っていた事は否めない。何時かスクリーンで自分の名前がテロップで出る事を夢見ながら現実にはそうは問屋が卸さず、Vシネ関連の仕事をして糊口を凌ぐ~そういう構図が見える。結果ホンペンを撮れぬ機会を得られぬ苛立ちが酒や私生活の荒れへと繋がる…ステロタイプな堕ち方だとは思うけど、本書を読むとそれはリアルだ。

 Vシネマは作り手の側から見ればそういう消極性というか負け犬性というか、そういう構図が作品にも反映したのかゼロ年代に入りレンタルビデオ市場で下り坂になると、Vシネマ業界も一挙に下り坂になり、そして連鎖的に筆者の盟友たちの死が生じていく。

 大学の映研時代はそれこそ年間三桁の映画を観ていた連中も、就職すると呆気ないくらいに映画から遠ざかっていってしまうのが常。まして生き馬の毛を抜く様な映画業界を生業とするとなるとシノギが第一義になって普通に「映画好き」でいられる事も難しくなってしまう。俺も昔ピンク映画の脚本で世に出て映画マニアに受けていた某脚本家と酒の席で会った時、今はTVドラマの仕事で忙しくて今年の映画は『子猫物語』しか観ていないと言われ、返す言葉がなかった。

 筆者の斃れてしまった彼の盟友も、常識的な世間から見ればはみだし者、もっと極端に言えば始終ブラブラしているばかりの役立たずに見えたのかもしれないが、映画を愛し映画を生きようとした。それを貫き通す事は階級社会化した今の社会や目先のヒットに眩んでいる映画界では難しい事であり、作品世界観に限定のあるVシネマが彼らの想いに十分に応えられる物ではなかった事は事実。結果Vシネ界は映画界の吹き溜まりの様な状態になり、そして人々が志半ばで斃れていく。Vシネマ系作品(昔はレンタル売り上げ促進の箔付けでVシネマを短期劇場公開するケースが多かった)で佳作を撮っていた某監督が既に故人になっていた事も、本書で初めて知った。

「自殺者は、自殺という絶対的な行為に向かって走っているわけではない。生きるか死ぬかが、白か黒かという二者択一ではなく、生の中に揺れている内に死んでしまう場合も多い。 やはり、周りが殺していることに少しは気づけよ、と思う」と筆者は後書きで述べている。西村潔と池田敏春は自ら命を絶ったけど、それは政治家が良く使う様な「自己責任」ではないって事だろう。死は本人にとっては終着点でしかないのかもしれないけど、遺された者にとっては何故死ななかったのか考え続けるという作業は必要であろうというか、本書はその想いだけで書き通した所を感じる。

  本書を読み終えて一体自分は今映画に何を求めているのか、改めて自問自答したくなる様な気分になった。映画は面白ければいいとか、客が入れば勝ちとかいう人はいるけど、俺が本来求めている物はそういう事ではなかったと思う。もっと赤裸々な物というか、本書にもそれがあると感じたから読んで良かったとは思う。