満知雄(園田シンジ)は駆け出しのエロ漫画家だが、なかなか漫画誌に採用されず鳴かず飛ばず。恋人の鈴子とは漫画家として一人前になるまでセックスはお預けという約束を交わし、満知雄はいまだに童貞。階上からアパートの大家のセックスの喘ぎ声を聞かされ悶々としている。ある日突然スケッチブックに満知雄が描いた小悪魔少女(璃乃)が現実に飛び出してきて満知雄は仰天。小悪魔は満知雄の漫画がダメなのは女のSEXの快感を知らないからだと言い…。

 

 ジリ貧状態のピンク映画界。日本全国で数えてもピンク上映映画館は20数館にまで落ち込んでおり、オーピー映画(旧・大蔵映画)が新作の製作を辞めてしまったらもうお終いだろう。そんな中オーピー映画は映画会社として生き残る策の一つで、18禁のピンク映画をR-15版に再編集して上映する企画をやっていたらしい。本作もそういう形で公開された。この作品まではホラー映画専門だった山本淳一という監督初のピンク映画作品で、漫画家志望青年を物語の主人公にしたおバカコメディ―。ヒロインの阿部乃みくはあの不快な「アベノミクス」から芸名を取った元AV女優。共演の璃乃はB級アイドルとして活躍、本作ではコスプレ姿を披露する。

 

 小悪魔が満知雄にキスすると満知雄は女(阿部乃みく)に変身。呆然としている所に大家が顔を出す。咄嗟の事で満知雄は自分の妹と名乗るが、レズの気もある大家は直ぐに満知雄の体に愛撫を加え、ノーマルなSEXの前にレズの快感を知ってしまう満知雄。小悪魔は満知雄を強引に屋外へと連れ出す。セクシーな女に変身した満知雄は男たちの興味を惹く存在になり、成り行きで変な男と変態じみたSEXを経験する。そんな満知雄を付け回す黒ずくめの男が。最初はストーカー扱いしてた満知雄だったが、男は満知雄がロクでもない男に喰われそうになった時助けてくれた。満知雄は初めて自らの意志でその男に抱かれ女の快感を知り…。

 

 タイトルクレジットのバックには女性が描いた可愛いイラストを使用、かつてはそのオッサン臭い世界観に閉口させられた大蔵映画とは思えぬ華やかなオープニング。ヒロインがいきなりレズに翻弄される下りは、阿部乃みく自身がバイセクシャルである事からそういう設定になったのだろう。全編ドタバタコメディ色の強い演出で、濡れ場になったらムード一変し興奮度大…という訳にはいかなかった。内容云々以前の技術的な問題として、屋外シーンでの台詞が小さく聴き取りくいという難点が。璃乃はアイドルなので?コスプレ姿オンリーで脱ぎは無し、彼女も含めやや太め系女優ばかりというのは監督の趣味も反映しているのか。罪なき凡作。

 

作品評価★★

(大ベテラン男優の久保新二が往年のピンク映画のコメディシリーズ『未亡人下宿』内のキャラ「尾崎君」に扮し大家と絡むという、俺ら世代にしか絶対分からぬギャグが登場。同年代の男優もう故人になった人が多いけど尾崎君、もとい久保新二は健在だったのは良かったなと)

 

映画四方山話その855~文庫版『惹句術 映画のこころ』(関根忠郎 山田宏一 山根貞男・共著 ワイズ出版・刊)

 本書の基になったのは『キネマ旬報』1981年12月上旬号~1984年3月下旬号まで連載された対談コラム『噫、映画惹句師』。現役の東映宣伝部員だった関根忠郎氏が作った「惹句」をネタにしながら東映映画の系譜を振り返る…。なかなか興味深い内容だったと思うのだが、当時血気盛んな映画青年だった?俺は『キネマ旬報』はチラ見する程度になっており、当然このコラムもしっかり読んだ記憶はない。

 そのコラムが『ワイズ出版』で単行本化されたのは1985年。それから10年後改めて増補版が出版され、そして今回文庫版の形でまた再発となった。最初から数えるともう40年以上の月日が経っている。映画界は対談が行われた頃から比べると全く違った形態になっているのだが、初めてちゃんと読んでみると、対談の発言に全く黴臭さを感じさせない所が凄い。

「惹句」というのは映画の公開時、ポスターや新聞広告に添えられる「売り言葉」の事。関根氏は1960年代から90年代半ばまで東映社員として在籍、膨大な作品の惹句を頭から捻り出してきた。東映の人というとどうしても「活動屋」ぽい体育系な人を想像してしまうのだが、関根氏は戦後直後の現代詩(鮎川信夫、吉本隆明など)に影響を受けた文系タイプの人で、山田&山根両氏との相性もいい。そんな感じで1960年代中頃から関根氏が作ってきた東映作品の惹句が次々と紹介されていく。

 改めて言うまでもないが1960年代後半から東映は任侠映画が全盛となり、それが70年代初頭に実録映画路線に取って代わられた。それによって惹句も任侠映画時代の「七五調文体」から現代詩風な奔放な物?へと代わっていく。任侠映画時代に先代の惹句師から仕事を引き継いだ関根氏の腕の見せ所であった。それが「角川映画」の登場で「惹句」は惹句師ではなくコピーライターの作る「コピー」へと受け継がれてゆく…そういう凡その流れで或る意味本書には「東映映画論」みたいな物を感じたりもする。

 任侠映画の二大スター、高倉健と鶴田浩二の俳優としての資質の違いも惹句を通して追っていくと明らかになっていく。クライマックスの殴り込みで観る側のカタルシスを促す高倉健主演映画の明朗さを顕す惹句「健サン見なけりゃ 正月気分になれません」(『新網走番外地』シリーズ)と、破滅的な鶴田浩二主演映画の暗さを顕す「生きて仁義を汚すより 死んでやくざの花咲かす」(『関東やくざ者)』。健さんが主演映画で死ぬ事はまずなかったが、鶴田浩二は常に死と隣り合わせでドスを振り回す。今までそういう風に二人の違いを意識して感じた事はなかったので、刮目させられた。

 そして菅原文太というニュースターを生んだ実録路線になり、惹句も映画本体と同じ位に刺激が強い物となっていく。『仁義の墓場』の惹句「カラスが啄(ついば)む仁義の死骸(むくろ)」。実録映画の限界線を突破してしまった襲撃的な作品のイメージを見事に表現した惹句である。映画的には期待過剰でイマイチだった『柳生一族の陰謀』の「我(わし)につくも 敵にまわるも 心して決めい!」も名惹句と言っていいだろう(志村けんのギャグに使われていたとは知る由もなかったが)。

 そういう風に惹句と照らし合わせながら東映映画の快作、名作の想い出を脳内プレイバックできるのが本書のメリットではあるが、東映が大作主義に走り宣伝方法ではTVのスポットCMが主軸になっていくと、惹句その物の価値が問われる様になってしまった…というのが本書の〆だ。「角川商法」では映画の立ち位置は「○〇フェア」の宣伝効果の一つでしかなく、角川映画に付けられたコピーも当然ながら映画その物を題材にしては作られてはいなかった。そういうコピーがゆくゆくは映画を非映画的な物へと導き、結果「映画的」である事が映画その物の興行価値の足を引っ張る形になってしまうのではないかという危惧。21世紀になってからのメジャー会社が作る日本映画はそう成り果ててしまったと言わざるを得ない。

 勿論「東映映画」というブランドも今は消えた。そういう「映画無き時代」に俺はどの様な映画を求めていけばいいのか…と、現在の映画についても考える事を促す本でもあった。