31・『泳ぐひと』(68年 監督フランク・ペリー)

 個人プールを持つ家が多い高級住宅街に、海パン一丁という異様な姿の男ネッド(バート・ランカスター)が出現。自分の家まで各家のポールを泳ぎ継いでいくと主張し旧知の人達とも顔を合わせる。人々の反応は十人十色で彼を歓迎しない人もいたり…。半裸の主人公が作前で出会う人々を通し、60年代中盤のセレブ階級の有様を皮肉ぽく描いた異色中の異色作。やってる事自体が普通じゃない主人公が歓迎されないのも当たり前だとは思うのだが、観ている内に結末も何となく見え、事実ラストシーンで主人公が正気ではない事が暗示される。あまりにも異色作なので公開が遅れに遅れ、シドニー・ポラックによる撮り直しシーンもあったとか。

 

32・『真夜中のカーボーイ』(69年 監督ジョン・シュレンジャー)

 

 有名過ぎるアメリカン・ニュー・シネマの代表作で俺が高校生の時の土曜日、両親が何処かに泊りに行って誰もいない真夜中にTVで観た。NYに憧れるカーボーイ(ジョン・ヴォイド)は当時東京に憧れていた俺の代弁者の様に映り、彼が出会う底辺男ラァツォ(ダスティン・ホフマン)は東京にもこんな奴がいるかもしれない…というリアリティがあった。でも実際上京してみたら俺の方が「お前はラァッオその物だ」と言われ、知り合いが雑誌に書いた自伝的小説では、俺は「ラァツォという綽名の男」として登場。監督のジョン・シュレンジャーはゲイでTV解説者の淀川長治も…。この作品については重い出があり過ぎ雑な感想文になってしまったな。

 

33・『ワイルドバンチ』(69年 監督サム・ペキンパー)

 1913年のメキシコ国境近くのテキサスの町を舞台にパイク(ウィリアム・ホールデン)率いる強盗団「ワイルドバンチ」が、卑劣なマパッチ将軍率いるメキシコ政府軍に心ならずも雇われる形で列車強盗をするが、マパッチ将軍がパイクたちと五分の取引きをするはずもなく、壮絶な銃撃戦が展開される…。サム・ペキンパーの名を世に知らしめた傑作で、人数的には圧倒的に不利なのにも臆せず、捕らわれた仲間の救出の為にメキシコ政府軍に挑んでいくパイクたちの義侠心&意地が感動的。歴史に残るスローモーションを駆使した銃撃戦シーンは、それまでハリウッドで不遇に扱われてきたペキンパーの怒りの銃弾であった風に、俺には映った。

 

34・『パットン大戦車軍団』(70年 監督フランク・J・シャトナー)

 第二次世界大戦で活躍した実在の軍人ジョージ・パットンを描いた作品でかのフランシス・フォード・コッポラが脚本を執筆。パットン(ジョージ・C・スコット)は軍人一家に育った超好戦主義者のヤバい奴だが部下からの信頼は厚い。数々の戦功を上げながらも職業軍人にありがちな打算や出世欲は皆無で、舌禍事件を起こして戦後は左遷される…。型破りの男を通し戦争が孕む様々な事柄を描いた異色の戦争映画。大星条旗をバックに演説をかますパットンの姿が印象的。決して「好き」になれないけど憎めないキャラクターに描かれていた。監督は『猿の惑星』や『パピヨン』を撮った娯楽映画志向の人だが、本作の高評価は想定外だったかも。

 

35・『M★Ǎ★S★Hマッシュ』(70年 監督ロバート・アルトマン)

 

 同じ戦争映画でもこっちはコメディ。朝鮮戦争下の米陸軍移動外科病院を舞台に、腕はいいがやる事はえげつない不良軍医たちの乱痴気ぶりを描く。特に彼らと悉く対立し「熱い唇」と彼らが名付けた女性将校(サリー・ケラーマン)への悪戯は度が過ぎており、今の作品ならセクハラを肯定的に描いていると弾劾されるはず。ただ軟派行為と戦争で傷つき運ばれてくる兵士の姿を対比させる事により、戦争よりも乱痴気騒ぎの方がナンボもマシ…という作り手のメッセージが見えてくるロバート・アルトマンの出世作。出演者のドナルド・ザザーランド、エリオット・グールドにとっても出世作だったが、後年有名になるロバート・デュヴァルも出ていたな。

 

36・『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(70年 監督サム・ペキンパー)

 

 かつて『ケーブルホーグ』という配給会社が存在した。社名はこの作品から取ったそうで91年のリバイバル公開もこの会社が配給したと思い込んでいたが、そうではなかったみたい。仲間に裏切られ砂漠に取り残されたケーブル・ホーク(ジェーソン・ロバーツ)が水源を発見。インチキ牧師ジョシュア、娼婦ヒルディと共にここに駅場所の中継地を作ろうと考え…。もう加齢で流れ者生活もキツくなった主人公が見い出した安息の地を巡ってイザコザはあるけど派手な銃撃戦らしき物は皆無。死を悟った主人公は舞い戻ってきたジョシュアに後始末を託し、次のシーンではもう葬式が行われている。西部劇の終焉を暗示する如きペキンパーの枯れた境地。

 

37・『ラストショー』(71年 監督ピーター・ボグダノヴィッチ)

 50年代前半のテキサスの田舎町を舞台に二人の若者、サニー(ティモシー・ボトムス)デュエーン(ジェフ・ブリッジス)の姿が描かれる。学校の体育教師の妻と深い仲になっていくサニー、美人でセレブな恋人を持て余すデュエーン…。娯楽の乏しい田舎町では女にでも熱中するしかないというのが現実。しかしそんな悶々たる日々にも終わりが。それを街に一軒しかない映画館のラストショーに象徴して描かれる。俺の育った街にも昔映画館が三軒あったが、今はその影も形もない…。ノスタルジーとうすら哀しさに被われた青春散歌…とでも表現すべき作品。「気のいいオヤジ」役のベン・ジョンソン、奔放娘役のシェル・シェパードなど懐かしい限りだ。

 

38・『時計じかけのオレンジ』(71年 監督スタンリー・キューブリック)

 近未来のロンドン。暴力の限りを尽くす不良少年グループのリーダー、アレックス(マルコム・マクダウェル)が警察に捕まってしまった。長期の懲役刑が宣告されたが、それを逃れる手段として政府が推し進める療法の実験台になる事を勧められ承諾。それは暴力行為や性行為に対し拒絶反応を起こすという治験だった…。管理社会化の一端として無抵抗な人間を作りだそうという体制の暴走的行為を、キューリック得意の奇天烈な風刺精神で描いたブラックなSF作。アレックスの暴力場面に往年の名画『雨に唄えば』の挿入歌を嚙み合わせたり、療法から解き放たれた主人公がエロい事を考えても苦痛がなく大喜びするラストシーンはケッサクだ。

 

39・『ボギー!俺も男だ』(72年 監督ハーバート・ロス)

 ボギーことハンフリー・ボガートの熱狂的ファンの映画評論家アラン(ウディ・アレン)。そのあまりのボギーオタクぶりに妻は愛想尽かして出て行った。そんな彼を心配する友人夫婦。その妻リンダ(ダイアン・キートン)に恋心を抱き始めるアランだが…。監督は別人だがアレンの書いた戯曲をアレン自身が脚色し主要出演者も舞台版そのままで、実質彼の監督作品に近い。友人夫婦も不仲になり口説くチャンスなのに、その場面になると必ずアランの妄想の中にボギーが現れアランを押し留める。結果心ならずも夫婦の復縁を取り持つ役目になり「男」にはなったけど実は寂しい…という、後のアレンが自身で散々縁じるダメ男の雛形になった作品だ。

 

40・『デリンジャー』(73年 監督ジョン・ミリアス)

 1930年代に米国中西部を荒らしまわった銀行強盗ジョン・デリンジャーについての作品は複数あるが、本作がベストではないかと。主役は渋い演技で知られるウォーレン・オーツ。彼が率いる強盗団と彼の逮捕(もしくは射殺)に執念を燃やすバーヴィス刑事(ベン・ジョンソン)との攻防が描かれる。一部で英雄視されても所詮お尋ね者。親に会いたいと思っても迷惑がかかるので、実家の100m前ぐらいで親に顔だけ見せて踵を返すデリンジャー。次々に殺されていく仲間たち(リチャード・ドレイファス他)も痛々しさが募るな。ジョン・ミリアスの演出には後のタカ派的目線はなく、こういう生き方しかできなかった男たちへのシンパシーが感じられるのだ。