近未来。地球は地表の98%まで水位が上がり、辛うじて生き残った人類たちは海上に作った基地や船で生活していたが、天敵がいなくなり海に餌がなくなってしまった鮫が人間に襲い掛かる。とある基地からSOSの電波を受け取ったバリック(ブランドン・オーレ)は直ぐに船で救助に向かうが、ビーという名の少女以外は全て鮫の犠牲になっていた。バリックはビーをベストロン海洋研究所に連れていく。研究所では水位を下げるべくCO2ロケットを打ち上げる計画が進行中…。

 

 タイトルから想像して『猿の惑星』+『JAWS』ぽい作品ではないかと。実は『JAWS』の大ヒットにあやかった「鮫もの」というジャンルがB級映画界には存在するらしい。そう言えばかなり前だけど人気プロレスラー、ハルク・ホーガンの娘が出演していた鮫もの映画を観た記憶があり、まあ出来は大した事はなかったけど…。本作の日本でのDVD販売は『アルバトロスフィルム』。それだけで観る前から脱力感たっぷりなのだが(笑)。地球上の殆どが海面と化した未来の地球で人間たちと人食い鮫との最終決戦が始まる…というストーリー。調べてみるとこの『鮫の惑星』は本作が好評だった?為かシリーズ化されているらしいからビックリ仰天ですね。

 

 打ち上げ準備に忙しい研究所にビーを置き去りにする訳にもいかず、バリックはビーを連れてサルべィション基地へと向かう。基地の指揮者であるダマートは女性でありながら勇敢な戦士で襲い掛かってくる鮫を返り討ちにしようとするが結局命を落とす。バリックの船に同乗していたニコラス博士(ステファニー・ベラン)は海底にある休火山の真上に鮫の集団を誘導し、時限装置で火山爆発を誘導させる計画を思い立つ。ニコラス自身が海上スケートボードで装置を火山上まで運ぶ事になった。飢えた鮫たちに追われながらもニコラスは何とか装置を目的地に運び火山は大爆発。殆どの鮫は死んだが唯一生き残った母鮫が襲い掛かって来て…。

 

 鮫の恐怖…て言ってもそれは海に入ろうとするから襲われる訳で、海に行かなければ危険でも何でもないという致命的な欠点?が『JAWS』にはあったが、本作の設定なら嫌が応でも鮫と対決しないといけない。そのアイディアは良かった…というか、そのアイディアのみで作ってしまった凡作。CG全盛時代では鮫が人間を襲ってもスペクタル的な物は望むべくもないし、CO2ロケットが打ち上げられれば水位が下がるという理屈もストーリー的には殆ど説明もされないのでピンと来ない。故に人間の天敵だった母鮫が実は人類の救世主になったという肝心なオチも不明瞭なだけで、一作目がこの出来ではとても他のシリーズ作など観る気になれん。

 

作品評価★

(アルバトロス・フィルム販売作品らしいしょうもない出来栄えで、その類の作品を観て無理にでも面白がる趣味も持ち合わせていないので厳しく評価。ストーリーと関係ない話だが生き残った人類たちはどうやって水を摂取しているのか気になった。雨水溜めて飲んでるのか?)

 

映画四方山話その689~『現代思想 2015 4月臨時増刊号 菅原文太 反骨の肖像』(青土社)

 近年東映やくざ映画の黄金時代を支えたスターたちが続々鬼籍に入っている。菅原文太もその内の一人で14年11月28日に亡くなってからもう七年近くになるのだが、他のスターの死に感じた物と菅原文太の死とは全く別の印象を持った。何故なら菅原文太は亡くなる直前まで「スター」としてではなく、先の戦争を体験した一個人として、庶民の意向を無視して事を運ぼうとする政治権力と対峙していたからだ。他の東映スターは暴力団のパーティーなどに出席して批判を浴びる事もあっても、こういう政治的な行動とは殆ど無縁であった。そういう東映スターらしからぬ行動をとった菅原文太の本意は何処にあったのかを探る…というにが本書の編集意図だろう。

 つまり東映スターとしての菅原文太と、一個人の「菅原文太」という二つの肖像が交錯させながら本書は進行する。まず映画スターとしての彼は、他の培養的にスターとして育てられた感のある東映スターと違って苦労人である。新東宝でスター候補生としてデビューしたが新東宝倒産により他の新東宝俳優と共に松竹に移籍。しかしこれといった代表作もなく脇役に甘んじていた所に、共演で知り合った安藤昇の仲介で東映に移籍。任侠路線では相変わらず脇役止まりだったが、任侠路線とは別種のリアルなやくざを描いた『現代やくざ』シリーズの主演で頭角を現し、そのシリーズで懇意になった深作欣二に『仁義なき戦い』の主役に抜擢されて漸くトップスターとなる。

 役者として何度も挫折を味わった事で、他の東映スターにない彼独特の凄みみたいな物が培われていったのだろう。ただ同時に彼は実録路線の出演を重ねる内にその限界みたい物も早い時期から悟っていた様で、そういう思慮深さも彼特有の物であった。

 では個人の「菅原文太」はというと、「義」を重んじる人だったという印象がある。晩年の行動からすると意外な気がするけど、菅原文太は76年の『ユリイカ』誌での川本三郎との対談でセスナ機で児玉誉士夫邸に突っ込んだ俳優・前野霜一郎に強い共感を示しているし、新右翼の統帥だった野村秋介とも懇意にしており、野村が製作した映画にも出演している。彼個人としては前野の行動や野村の思想に、わが身を捨てても事を起こす「義」を感じ取ったのだろう。

 映画界においても自分を引き立ててくれた鈴木則文への義を示すべく、敢えて『トラック野郎』シリーズで道化を演じた。正直ここまで三枚目路線を貫徹する事は本人にとってもかなりの葛藤があった…と思われるのだが。その一方で出演したら相当のメリットがあったと思われる山田洋次監督作『東京家族』の主演を「東日本大震災の後遺症が続いている状況では映画を撮ってる場合ではない」との理由で降板している。

 自分の信念に基づいて行動しそれにそぐわない事は回避する、本気な性格が感じられる。そういう彼が目先の事ばかり考えている近年の日本映画界に自分の立ち位置を見いだせず、引退宣言してスクリーンから去っていったのは至極残念であるが。

 と、ここまで書き連ねてみると、菅原文太の反骨精神がスクリーン内の菅原文太と決して無縁ではないなと思えてくる。『仁義なき戦い』シリーズでの、山守に代表される私欲剥き出しの連中に結果的には翻弄されて虚無的な心情へと陥っていく広能昌三の無力感。『県警対組織暴力』で綺麗ごとな公権力をふりかざす上司(梅宮辰夫)に「あんたかて子供の頃はヤミ米喰って育ったんだろう」と食い下がるやさぐれ刑事の真情。やくざや腐敗警察といった特殊な世界観ながらも、その範疇で菅原文太演じる人物は「義」が通じない事への苛立ちを体現していた…と今にして思う。多分菅原文太にとっては、沖縄を巡る現実の在り方がかつて演じた映画作品内の世界と重なって映る事もあったかのかもしれない。

 亡くなる寸前だった11月1日、辺野古米軍基地の是非が問われた沖縄知事選で、基地建設反対派知事候補の応援演説に立った菅原文太は『仁義なき戦い』の有名な台詞を引用してこう言ったという。「現知事さん、弾はまだ残っとるがよ」。広能昌三=菅原文太が撃ち遺した弾は、今何処に存在しうるのだろうか…。