昭和12年。刑務所で知りあった錠吉(高倉健)と玄造(勝新太郎)。出所後玄造は愛人だった坂東梅之丞率いるドサ廻り一座に舞い戻り、錠吉は兄貴分の女房だったユキノを訪ねて女郎屋へ。しかしユキノは死んでおり、妹分だったサキエ(梶芽衣子)の話では自殺で、サキエは姐さんみたくなりたくないから足抜けさせて欲しいと哀願。たまたまその女郎屋には客として玄造がいて、彼の助けを借りて錠吉はサキエの足抜けに成功。だが以降錠吉は姿を消し…。

 

 高倉健と勝新太郎という60年代日本映画界のビッグスターの共演。この企画は『津軽じょんがら節』を観て感動した勝新が勝プロでの監督を斉藤耕一に依頼した事で実現。結果的には斉藤のみな『津軽~』の脚本を書いた中島丈博まで雇っての製作となった(但し中島は脚本共作者としてクレジットされており、脚本の問題で裏で揉め事があったのかも)。刑務所仲間の二人と足抜け女郎によるアドベンチャー物。公開は東宝系。健さんと勝新に加え脇役で安藤昇御大も出演しているという豪華布陣。他にも藤間紫、山城新伍、中谷一郎、大滝秀治、殿山泰司といった昭和を飾った名優が登場するので、勝プロの力の入れ方が伺えるな。

 

 行き場がなくなったサキエは玄造に助けを求めて一座へと。玄造はサキエから錠吉が昔潜水夫だったと聞き長年の夢だった山陰沖に沈んだバルチック艦隊の軍用金引き上げができるかもしれないと思い、再会した錠吉にその話を持ちかけてみるが錠吉は無視して再度姿を消す。仕方なく玄造はサキエに協力してもらい夢の実現に動く。錠吉は兄貴分を殺した仇の仙蔵を探していて、遂に見つけた仙蔵を果し合いの上仕留めるが、仙蔵の口から兄貴分殺しは親分の大場の差し金と聞いて愕然。やくざ渡世が厭になった錠吉は大場を殺った後玄造とサキエがいる海岸に現れて合流。玄造と力を合わせて軍用金ゲットも近しと思われたが…。

 

 ストーリーを追うと、かのロベール・アリンコの名作『冒険者たち』の日本版である事は明白。高倉健はいつもの「健さん」のキャラだし、勝新のいかがわしくも一本気な男というキャラも想定内の事なので本来なら佳作ぐらいは保証されていいはずだし、坂本典隆による昭和10年代の風景を再現した撮影も美しいのだが、終始シラケた雰囲気が漂う。その原因は1にも2にも健さん勝新コンビにバディ感がないから。まあ立場上現場では勝新が健さんを立てていたのだろうが、健さんにはあんまりノリ気が感じられない…。梶芽衣子もジョアンヌ・シムカスとまではいかなくとも、従来のイメージを覆す魅力が欲しかった。ヌードシーンも吹き替え。

 

作品評価★★

(和製『冒険者たち』としては他にも75年に公開されたフォ―クグループ『あのねのね』が主演した同名映画があり、ストーリーもオリジナルのパクリみたいな本作よりもよっぽど見どころのある作品だったが、自主映画なのでもう滅多に観る機会はないんだろうな…。残念!)

 

映画四方山話その683~『映画監督 三隅研次 密やかな革新』

 

 日本映画評論にかけては定評ある評論家である佐藤忠男は「三隅研次の様に商業映画からほとんど一歩も踏みだしたことのない監督のばあい、その作家としての主体性のありようを考察するのはちょっと難しい」とかつて述べていた事を、本書で初めて知った。三隅に限らず50~60年代までプログラムピクチャーを多く手掛けていた「職人監督」は、佐藤忠男が述べた事とほぼ同じ論理で長い間映画評論界から無視されてきた。ただ何の予備知識もなく『斬る』(62)を観て驚愕したという体験を持つ俺にとっては、当初から三隅研次は単なる職人監督の粋に留めておける存在ではないと思っていたのだが…。

 本書はそういう三隅の職人気質(会社側から宛がわれた企画をこなしていく事)を認めた上で三隅ならではの作家性を見出す事が出来るのでは…という観点から書かれた、初の三隅映画評論本である。

 三隅研次が大映で監督デビューしたのは54年。55年『月を斬る影法師』で勝新太郎と、同じ年の『淺太郎鴉』で市川雷蔵との顔合わせが実現。以降三隅は二人の主演作品を数多く演出した。その殆どが時代劇だった関係から大映時代劇の代表的監督として三隅研次は知られる様になるが、会社に自ら企画書を提出するみたいな監督でなかった事は確か。

 著者は三つの視点から三隅映画に迫る。一つは抑制された演出手法。本書には三隅映画からの膨大な数のカットが抽出されており、それに対しての詳細な解説が加えられている。そこから伺えるのは饒舌な台詞や説明的カットを重ね物語を綴るやり方への違和感であり、それをできるだけ廃する事で三隅映画独自の世界観を形成されていったのだ…と著者は指摘する。

 第二に登場人物を双極的に配する事。三隅映画に良くある展開として対照的な二人の人物が登場するという構図が見受けられるが、著者によるとそれは合わせ鏡的なシチュエーションであって、突き詰めて言えば人間誰しもの裡にある二面性を表出させた…という事になるのだろうか?

 第三に登場人物を安直に「白か黒か」に分ける事への拒絶。顧みれば三隅が手掛けた一作目の座頭市(62年の『座頭市物語』)や雷蔵が演じた『大菩薩峠』の机龍之介や眠狂四郎は、東映時代劇の勧善懲悪ヒーローとはかけ離れたキャラクターだった。三隅は東映任侠映画が大嫌いで「暴力を行使するやくざが正義のヒーローである訳がない」と広言していたという。確かに三隅は会社に請われ任侠映画を何本か演出した経験はあるが、総じて出来は良くなかった。己を貫こうとする事が権力者に利用されたり、自壊する事に繋がるというテーゼが三隅映画のキモではないかと。

 そういう三隅の作家性が最も如実に顕れたのが高名な剣三部作(62年の『斬る』、64年の『剣』、65年の『剣鬼』)であった訳だが、ただ問題は大映を離れてからの三隅の作品群。勝プロ『子連れ狼』シリーズが世界的なヒットになったのは三隅研次の功績である事は相違ないのだが、三隅は大映時代の抑制された演出術を放棄してしまっている。言わば見世物映画に徹しきった演出でそれはそれで面白いと俺は思うのだが…。その点では著者は批評するのに難渋している感があり、それについての三隅の発言などが遺されていれば良かったのかもしれないが、それは今となっては望むべくもない…という事だろう。

 思想的云々の前に「観る」という事を一義的に三隅映画を分析する著者の語り口は、つい映画をテーマ主義で語りがちな風潮に対する戒めみたいな物も感じさせる労作…という印象を持った。大映時代劇ファンならば必読ではあろう。