シカゴブルースの黄金期を支えた重要人物の一人であるジミー・ロジャース。1924年生まれの彼はマディ・ウォーターズバンドのサイドギタリストとして40年代後半から55年まで在籍する傍ら、51年からチェス・レコードでソロ名義録音もスタートしており、それらの録音作を集めた彼の代表作が『シカゴ・バウンド』(70)だ。

 60年にチェスレコードを離れたジミー・ロジャースは音楽では食っていけず洋品店を経営やタクシー運転手でシノギしていたというから、「伝説のブルースシンガー」はともかくリアルブルースマンとしては60年代は受難の時期だったんだな…と今にして思う。70年代に入ってからカムバック、73年デニー・コーデルとレオン・ラッセルが設立したレーベル『シェルター』で新録のアルバムを制作。当時シェルターには「三大キング」の一人フレディ・キングも在籍しており、復活アルバム『ゴールド・テイルド・バード』はそのフレディ・キングとエリック・クラプトン絡みで知られる個性派ミュージシャン、J・J・ケールが片面ずつプロデュ―ス。以降ジミー・ロジャースは90年代まで様々なレーベルからコンスタントにアルバムを発表、世界各地のブルース・フェスティバルにも数多く出演した。

 さっき聴いた『テキサス・バウンド(ルーデラ)』はテキサスにある『アントンズ』なるインディーズレーベルから発売されたスタジオ&ライブ盤。アントンズはレーベル運営の傍らクラブ経営もしていたらしく、そこでこういうアルバム構成になったらしい。プロデューサーは白人ブルーズバンド『ファビュラス・サンダーバーズ』のハープ奏者キム・ウイルソンが担当、ジミーと同じくシカゴブルース全盛期の立役者的ピアニスト、パイントップ・ホーキンスやマディのライバル、ハウリン・ウルフの共演ギタリストとして一世風靡したヒューバート・サムリン、ハウンド・ドック・テイラーのバンドのドラマーなどが参加している模様。 ジミー自身はサイドギターとヴォーカルに専念。

 トラック1『ユー・スイート』はスロー・ブルース。籠った様なジミーのヴォーカルにキムのハープが華を添える。ホーキンズの独特な叩く様なピアノプレイも聴きもの。トラック2『ロック・ディス・ハウス』はドライブが効いたキムのハーププレイがジミーのヴォーカルと拮抗するぐらい前面に出ているアップテンポなナンバー。サムリンのシンプルなギターソロも渋いね。

トラック3『キャント・スリープ・フォア・ウォーリング』はまたスローな、これぞシカゴブルース!というスタイル。キムのハープがむせび泣く。トラック4『ホワイ・デッド・ユー・ドー・イット?』はバッキングギターのリズムがユニークで面白い。ギターと絡むピアノプレイも聴きもの。

トラック5『スリーピー・ドランク』はアップテンポでグイグイ押していく感じ。ここでもキムのハープが大活躍でジミーを差し置いて悪目立ちという批判もありそうだけど、それでもノリの良さは抜群。曲後半からはパーキンスのピアノも大活躍。

 トラック6からがライブ収録パートらしくジミーのMCが入って『ゴールド・テイルド・バード』を演奏。ジミーの自己体験も加味された様な詞をダルなリズムに乗って唄う。長めに収録されたサムリンのスライドギターの間奏ソロもいい。

 続いてジミーの代表作アルバムのタイトルでもあるトラック7『シカゴ・バウンド』を披露。ハープソロから入ってテンポのいいリズムに乗って心地よさそうに唄うジミー。トラック8『モンキー・フェイス・ウーマン』って何か酷いタイトルだが、粘っこいギターソロを聴いているだけで酷い女に捕まってしまったブルース心が何となく伝わってくる様で…。

 トラック9は表題曲の『ルーデラ』。このタイトルも女の名前らしく、やはりブルースには性悪な女が付きものなんでしょうな。シカゴブルースならではの演奏の世界観は流石。ライブサイドの最後はマディ親玉の代名詞曲『ゴッド・マイ・モジョ・ウォ―キン』で〆、場末の酒場ぽいクラブ(失礼)には最適の選曲ではあります。

 他にボーナストラックとしてトラック4とトラック1の別テイクと、『ナップタウン』というインスト曲も収録されている。

 

 ソロ名義であってもジミー・ロジャースは目立ちたがりなタイプではないらしくバンド色が強い演奏。正直音楽として「新しい一面」なんて物は何にもないんだが、シカゴブルース黄金期を体験してきたジミー・ロジャースの矜持は時代を超越したスキルがあるのだと言っておこう。この年齢で(当時65歳)これだけの現役感のある演奏ができるんだから、ブルース好きなら文句はないよね。

 ジミー・ロジャースの遺作アルバムとなった『ブルーズ、ブルーズ、ブルース』(99年。ジミー・ロジャース・オール・スターズ名義)ではミック・ジャガーやキース・リチャーズまで参加して豪華共演を披露。97年には来日公演の予定も決まっていたのだが急遽中止になり、翌年末に亡くなっている。ブルース一筋に生きた生涯であった。