ロシア革命によってニコライ二世らの皇族一家が処刑されてから10年後のパリ。ロシア皇帝の元将軍ポーニン(ユル・ブリンナー)らはニコライ二世が娘たちの為にイングランド銀行に預金した1000万ドルの遺産に目をつける。その遺産を引き出す為にニコライ二世娘たちの中で唯一生き残っていると噂されるアナスタシア皇女が実際に生きていたと宣伝。セーヌ河に身を投げようとしていたアンナ・ニコル(イングリット・バーグマン)をアナスタシアに仕立てる事に…。

 

 高校時代の俺の友人だったAは毎月『ロードショー』を買う映画好きで、往年のハリウッドスターが大好きだった。そんな彼が「結婚できるならしてもいい」とまで言い切っていたのがイングリット・バーグマン。ご存知『カサブランカ』(42)で知られるスウェーデン出身のハリウッドスター。戦前から戦後にかけてが全盛期だが70年代に入っても『オリエント急行殺人事件』(74)などで活躍した息の長い女優。本作はイタリア映画に転出していた彼女がハリウッドに戻って撮影した最初の作品で、彼女にとって二度目のアカデミー主演女優賞を獲得した記念すべき作品に。共演は実際にロシア系で『王様と私』(56)『荒野の七人』(60)などのユル・ブリンナー。

 

 アンナは記憶喪失にかかっており過去は殆ど覚えていないが、昔入院していた病院で私はアナスタシアと名乗っていた事もあった。彼女をアナスタシアに成り切らせるべくポーニンたちは厳しいレッスンを施し、それらしくなった彼女をパリに住む元ロシア宮廷の人間たちと面会させる。反応はまちまちで偽者だと断言する者もいたが、構わずポーニンたちはデンマークで余生を過ごすアナスタシアの祖母に当る皇太后(ヘレン・ヘイズ)と甥のポールに引き合わせようとする。ポールはアナスタシアの許嫁であった。だが自分を偽る事に躊躇いを隠せないアンナを見てると、最初は金を得る事のみが目的だったはずのポーニンの心にも変化の兆しが…。

 

 ロシア最後の皇帝の皇女が生きているとの都市伝説から発想したロマンチックラブストーリー。偽者だったはずの女が実は本物だった事が判明した事で様相が一変、このままだと彼女は皇太后の甥の后になる。本物の皇女を探し出した事で男は晴れてペテン師ではなくなって万々歳のはずだが、勘のいい皇太后は男の動揺を見抜き「金よりも愛」を選ばせるチャンスを与える…。このまま舞台でも通用しそうなストーリー展開だが、今の映画に比べると恋愛描写はごく控えめというか、多分この頃の作品はそれだけ観客の想像力に委ねる部分が多かったのでは、と思う。もう四十路に突入していたイングリッド・バーグマンだが依然美しさは衰えぬ。

 

作品評価★★★

(大ハリウッドスター同士の共演という話題性はやはりこの頃の映画には重要だった訳だ。ユル・ブリンナーはスキンヘッドの元祖的な人なのかな? イングリット・バーグマンは気品があり過ぎてとてもホームレス同様の女には見えんけど、映画に夢見る向きには正解なのかも)

 

映画四方山話その655~『全裸監督』に日本映画は勝てるか…。

 動画配信サービス会社『Netflix』のオリジナルドラマ『全裸監督』が大変な人気になっており、間もなく「シーズン2」も配信されると聞く。バブル時代にAV(アダルトビデオ)で一大資産を築き上げたがバブル転落と合わせる様に借金王へと転落していった怪人・村西とおるの半生をモデルにした物で、村西役の山田孝之他映画の大作でもまず揃わない豪華なキャスト、パート2にはあの宮沢りえも出演するというから驚く。

『Netflix』は米国に本社を置くDVDレンタル配信サービスを行っている会社で、俺の知らない内にレンタルビデオショップというのは完全に時代遅れになってしまい、今は配信で映画を観るのが当たり前になっている。確かに地方のレンタルショップでは圧倒的に品揃えが薄く直ぐに観たい映画が尽きてしまう。それに比べるとNetflixはマニアックな作品も多く観れるらしいのだが…。

 尤も俺は配信で映画を観るなんて事は今後もする予定はないので、そういう話を聞いてもあ、そうぐらいにしか思わないのだが、Netflixsは自社でオリジナル作品も製作しており、それが「映画」として認められて劇場公開されたりもしている。だがあくまで配信での興収が主であるこれらの作品を「映画」として扱うかどうかは賛否両論あると聞く。

 ま、そういう事は置いといても『全裸監督』はネット配信無関心派の俺でも興味を惹かれるコンテンツではある。洋画にも実在のポルノ男優をモデルにポルノ業界の裏側を描いた『ブギ―ナイツ』(97)という作品が存在するが(未見。これも豪華キャストだった)、バブルという今思い返してもクレージーだった時代、「村西とおる」はある種の人間(バブル転落と共に弾けた人々たち)のステロタイプとして記憶に残っている。馬鹿馬鹿しい事も、かつシビアな事も含めて「エロ」という安直だが極めてデンジャラスな世界に憑かれた人間たちの悲喜劇は、本来なら配信ドラマではなく巷のスクリーンにかかるべき…と昭和世代の映画マニアである俺は思ってしまうのだが。

 俺が観始めた頃の日本映画界はいかがわしさに満ちていた。東映のやくさ映画、日活ロマンポルノは家庭のお茶の間にはふさわしくない物であり、TVドラマの予定調和な世界の対極に位置する物で、TVでは飽き足らなくなった俺は昼間から映画館の闇の中に身を沈めていた。

 かつての日本映画について回ったいかがわしさ、猥雑な要素は21世紀になると急速に失われていった感がある。映画館はシネコンなどという清潔だが無個性な箱へと変わっていってしったし、かかる作品も「良識派」と世間で呼ばれる連中が眉を顰めたくなるようなインパクトのある作品は殆どない。単体として「いい作品」はそれこそ俺が映画を観始めた頃よりも数多いのかもしれないが、『全裸監督』の様なカオスな作品はほぼゼロになってしまった。

 つまり「いい作品」は数多くても「面白い作品」が少なすぎるのだ。『全裸監督』みたいな問題作を本当はネット配信なんかじゃなく映画でどんどん作って欲しいし、そんな作品がスクリーンにかかれば俺も我慢してシネコンに出向いていってもいいかなとは思うが、そんな危ない橋を渡ろうとする映画人もほぼいなくなってしまった…という事かしらん。