1989年11月29日。俺は東京ドームの外野席にいた。『第二次UWF』の東京ドーム興行『U-COSMOS』を観戦する為だ。とある所で俺と知り合いになったK氏とは『イカ天』とプロレスの話題で会話が盛り上がった。K氏は正確にはプロレスファンというより第一次からの熱狂的UWFマニアで、彼の誘いで観戦する事にしたのだ。

  当時のプロレス界はUWFが席巻していた。『第一次UWF』解散後古巣である新日本プロレスとの対抗戦に踏み切った前田日明を筆頭とするUWF軍団だったが、対抗戦の試合中前田が長州力の顔面を蹴り上げて無期限停止処分を喰らった事をきっかけに前田はUWF再興を決意。新日との契約を打ち切った軍団選手(木戸修は新日に残留。藤原喜明も新日に残留したが遅れて前田らに合流)と共に88年5月後楽園ホールで旗揚げ戦を敢行。

 

 それから僅か一年半で新日に続いて東京ドーム単独興行を適えたのだから、まだネット社会でなかった当時としては驚異的なブームであった。その仕掛け人になったのは「俺がプロレス界を動かしている」と広言して憚らなかったターザン山本が編集長だった『週刊プロレス』の煽り、そしてUWFのスポンサー(タニマチ)となった「メガネスーパー」の尽力があった事も抑えておくべきだろう(メガネスーパーとの関りが皮肉にも第二次UWF解散の引き金になっていくのだが)。

 会場の雰囲気がどうだったかまではもう記憶にないが、公式入場者数6万人という事は一応「超満員」と言っていいのだろう。対戦カードは計7試合。新日と違い試合数は随分絞り込んである。ただ試合直前に至っても俺はUWFをプロレスとして捉えるべきなのか、「真剣試合」と捉えるべきなのか迷いながらの観戦だったのだ。

 新日を退団してUWFと合流した鈴木みのる対モーリス・スミス戦、山崎一夫対クリス・ドールマン戦(試合前に選手の戦歴がモニターで紹介されるのだが、ドールマンのみ桁違いに試合数が多く会場からもどよめきが)はスミス、ドールマンの一方的勝利に終わった。プロレスの「受け」を廃してしまったら逆転の要素など一切なく、実力差がモロに出てしまうのは当たり前の話。K氏は真剣に鈴木みのると山崎一夫の敗戦について嘆いていたが、俺はそういう気分にはならなかった。藤原喜明は貫録を見せてデイック・フライを破ったが記憶には残っていない。

 セミファイナルは「レスリング」の試合で高田延彦がデュアン・カズラスキーを下したが、これはどっから見てもプロレス(笑)。わざと逆エビを受け苦悶の表情がモニターで大写しになる高田はどっから見ても「UWF戦士」とは言い難い。プロレス試合としてもあまり面白くなかった(相手の役不足も理由の一つだろうが)。

 メイン・エベントで前田と闘った柔道家ウィリー・ウイリヘルムは元柔道世界チャンピオンで柔道ならガチで強いんだろうが、勝手知らぬ格闘技戦では前田の掌で踊らされる以外に術はなかった。柔道家の格闘技戦やプロレス界の転向は選手側の裏事情が付きもので(80年代まではアスリートのプロ化はまだ本格化しておらず、柔道世界チャンピオンの肩書だけでは生計を立てるのは難しかったみたいだ)、前田の噛ませ犬として恰好の相手だった…と言える。

 俺の全体を通しての感想は、どの試合も「プロレス」としては及第点には届かない凡戦揃い、格闘技戦としても団体内での日本人対決とは違い、不慣れな外国選手との試合はまだまだ成熟化していないという結論だった。

 今にして思えば「UWF系」の試合が成熟していったのは、皮肉にも第二次UWFが解散~分裂化して以降だった…と俺には思えるのだが。終了後興奮冷めやらぬK氏と醒めた俺との温度差は明らかで、飲みにいったけどあまり話題も盛り上がらなかったはず。

 第二次UWFはその後も順風満帆に運営されていた様に見えたが、タニマチのメガネスーパーが『SWS』を設立した事をきっかけに選手とフロントの対立が表面化したあげく翌年90年12月にあっさり解散してしまう。その報道を知りショックを受けたK氏から電話がかかってきて「もうプロレスは観ない」との事だった。昭和からのプロレスマニアの俺とUWF信者のK氏とでは根本から理会し合える部分は少なかったのだ。その後K氏とは一度だけ『FMW』の試合を観戦したが、K氏はまだ第二次UWF解散のショックを引き摺っていて、酒の席で悪酔いしてUWFとは因縁の間柄である大仁田厚(東京ドーム興行に大仁田は挑戦状を持って現れたが、フロントにチケットを持っていない人は入れませんと虫けら扱いされて立ち去った)批判を延々と繰り広げたのであった。その後K氏との関係は疎遠になり、今どんな生活をしているのかも全く知らない…。

 プロレスファン間に「もしかしてガチかも」と巨大な幻影を作り上げた第二次UWFだったが、第一次UWFで前田らと袂を分かった『スーパー・タイガー』こと佐山サトルは「第二次UWFは八百長」と断言し続けていた。あの頃から30年近く経って幾多の選手同士の因縁も随分氷解したが、前田と佐山の和解だけは金輪際なさそうだ。