伝説のフリージャズ系アルト・サックス奏者、阿部薫の事を知ったのは彼がサントラを担当し出演までした若松孝二監督の映画『十三人連続暴行魔』(78)でだった。この仕事をして間もなく阿部薫は自殺とも事故死とも判別つかぬ死に方をし、その事を事前に知っていた事もあり、阿部が多摩川の河原でサックスを吹いている姿は今もって鮮明に覚えているというか、長い間阿部が演奏している所を拝めるのはこの映画だけだった。

 その効果は意外と大きかった様で、俺の周囲の映画マニアの人でも三人ばかり80年に発売された阿部のアルバム『オーヴァーハング・パーティー』(豊住芳三郎とのデュオ名義)を買い求めていて、俺もその内の一人の部屋で『オーヴァー~』をチラッと聴いた事があるから、その時が初めての阿部薫の音体験だった事になるが、その時は何か枯れきったサックスだな…との印象しかなかった。

 だから本来の意味でちゃんと聴いたと言えるのは、この手のCDとしては爆発的に売れたとされる、阿部の死直前の演奏を収めた『Last Date 8,28 1978』(89)という事になる。これについては俺の旧アメブロブログで書いたのでここでは繰り返さないけど、『オーヴァー~』と比べると体調もまだ良さそうで勿論サックスもいいが、それよりもまるで葬送曲の様に心の裡にまで響き渡りそうなハーモニカソロに聴き惚れた。多分このCDを聴いた多くの人も俺と似たような感想を覚えたと思うが。

 本書はそのCDの翌年、俺も一度だけ行った事がある初台にあったジャズ系ライブハウス『騒』に阿部が出演した演奏を収めた十枚に至るアルバムシリーズ『ソロ・ライヴ・アット・騒』の発売に合わせ発売された『阿部薫覚書』の続編というべき内容。『阿部薫覚書』は阿部と付き合いがあった人や彼と同じ時代の空気を味わった人たちによるメモリアル的な寄稿&インタビュー集で、多少なりとも阿部と同じ時代の空気を経験した俺にとっては、ある種70年代という時代の断片を垣間見れる様な内容だったが、本書は阿部世代の人よりも阿部と時代を共にしなかった人々が多く寄稿して各々の「阿部薫」についての想いを語る…という内容。

 その意味で言えば『覚書』にあった重さみたいな物は本性には殆どない。『覚書』以降阿部のコンテンツは復刻された物も含め膨大な点数が世に出ており、それを聴いた若い世代、更にはネットなどを通し阿部の存在は世界各地にまで知られる様になったと言う。

 中には私感を排除して同じサックスプレイヤーの立場から技術的に阿部の演奏を分析するという画期的な文章もあったが(吉田隆一)、俺が映画を通して阿部と出会った様に個人それぞれの違った形の阿部との出会い方が当然ある訳だ。ネット世代になると阿部はフリージャズの域に留まらぬフリー・インプロゼーション系音楽家という捉え方が多く、中には阿部薫が苦手だと元も子もない事を書いている人までいる(杉本拓)。その意味で言えば本書の編集方針もまたフリーキーな訳で(笑)、もっともらしく大仰に構えて阿部薫を語るなんてやり方はこの時代にはふさわしくないのかもしれない。

 俺が最も注目したのは『解体的交感』(70)などで阿部とデュオを組んだが、その後阿部との共演を拒絶し絶縁状態になったと言われていた高柳昌行(ギター)と阿部の交流がデュオ解消後も続いていたとされる新証言。阿部の音楽とは全く関係ない話題だけど(笑)、二人だけに通じる音楽を越えた絆が当時の阿部にはまだ成立する余地があったのかも…とも思う。

 死後40年以上も経って尚阿部薫のあれこれを求め続ける人々がいるとは凄い事である。音楽が容易く商業化され蝕まれていく様な時代の中、阿部薫みたいな「絶対音楽」がジワジマと広がりつつあるのは捨てたモンでもないな…とは思う。