90年代のプロレスブームの頃は横浜アリーナなど目的の試合会場が神奈川県にある場合が多かった。対照的に千葉県はあまり行った事がない…というか、東京在住時代私生活で千葉県に足を踏み入れたのは十回もなかった気がする。

 その数少ない千葉県行きの半分くらいの目的がプロレスを観に行った『NKホール』(正確な名称は東京ベイNHホール)。1988年開業というからバブル期真っ最中に開業した訳だ。 コンサートを中心にした多目的ホールで最大で8000人収容可能の大ホールだったみたいだが、プロレスを観に行った時はそんなに大きいホールだとは気づかなかったな。

 NKホールに行く時はJR京葉線の舞浜駅を利用していた。横目に東京在住時代一度も行く機会がなかった(そもそも行く気もなかったが)東京ディズニーランドの駐車場を横目に見ながら20分ばかしも歩く。決して歩いて近いと言えない距離で事実舞浜駅から直通バスも出ていたはずだが、一度も利用した事はない。

 NKホールに向かって歩く最中、俺は今日の試合についての予想というか妄想というか、そういう物を頭に巡らして歩き丁度頭の中がそれで充電いっぱいになった頃NKホールに到着。その意味では俺みたいなプロレスマニアにはちょうどいい塩梅の駅からの距離感…という事になるのだ。

 さて肝心の試合についてだが『FMW』と『藤原組』の試合を観た事は覚えている。『リングス』や『UWFインター』ももしかしたら一回ぐらいはNKホールで観たかもしれないがもう記憶していない。お洒落なNKホールと泥臭いFMWは全く不似合いの様に思えるが、調べてみると観戦したのは91年12月19日。『世界総合最強格闘技タッグリーグ戦』の最終戦だ。最強格闘技決定戦がタッグ戦で行われる事自体矛盾している(笑)。決勝戦は大仁田厚&ターザン後藤組対グリゴリー・ベリチェフ&コバ・クルタリーゼのロシア柔道コンビの顔合わせで大仁田組が勝ち初代世界マーシャルタッグ王座に輝いているが、俺が記憶しているのは第六試合のスペシャル8人タッグマッチ(リーグ戦敗者タッグチーム同士の組み合わせ)。入場時のハイテンションぶりで会場を沸かせた韓国テコンドーコンビのやられっぷりが半端じゃなく、マジに試合終了後病院送りになるのではないかと思ったが、特にそういう気配もなかったという事は受け身が異常に上手かったのか(笑)。

 藤原組の試合を観たのは同じく91年の7月26日。第三試合に登場したウェイン・シャムロックの強さが際立っていた。後にシャムロックは船木誠勝と鈴木みのるが設立した『パンクラス』の外人エースに成長するが、まさか『WWE』で闘う事になるとは想像だにしていなかった。

 第五試合は鈴木実(鈴木みのる)と当時『SWS』に所属しながら藤原組に参戦し続けていた佐野直喜の30分一本勝負。双方とも死力を尽くしても決着つかずの引き分けだったが、試合後にお互い膝をつきリングに座り込んで健闘を称え合う姿が印象的だった。現在新日で悪ぶってる姿とはかけ離れた、格闘技界の青年将校的な趣が鈴木にはあった。佐野はSWS崩壊後はUWFインターを経て『NOAH』に入団、佐野斗真と改名しいぶし銀的な活躍を見せたが、ベルトに届かなったのはやはり「外様」だったからか、それとも見るからに穏便そうな性格が災いしたのか…。現在は鈴木より先に引退してしまっている。

 91年と言えばもうバブルは弾け初めていたはずだがまだまだ世間の景気は良く、プロレス団体も揃って景気は良かったんだな。試合が終わると俺と観戦タッグパートナーのH氏は本来は通り抜けが禁止されているディズニーランドの駐車場を横切って舞浜駅に向かった。閉園一時間前ぐらいの駐車場には車が殆どおらず、サーチライトが夜の駐車場を照らし出し、それがまるで米国映画の1シーンみたいにフォトジェニックで、長かった東京生活でも特に印象に残る風景の一つだった。大体舞浜駅に着くのは午後九時半前だったと思うが、それでもしっかり新宿の酒場で観戦感想を交わして帰ったはずだから、俺の酒好きも当時は相当な物だったのだな…。

 そんな90年代プロレスブームの象徴だったNKホールもバブル崩壊を象徴するが如く、現在は取り壊されてその面影もない。プロレス者にとって良き時代の象徴だったNKホール。嗚呼…。