舞台は長野県飯山市。12年前豪士(綾野剛)は母親の洋子がチンピラに暴力を振るわれているのを見て付近にいた街の実力者・藤木に助けを求め、それがきっかけで藤木は母子の仕事の斡旋をする事になり、豪士は母に言われて藤木に会いに行く。それと同じ頃藤木の孫娘・愛華が下校途中行方不明に。愛華を最後に見たのは同級生の紬だった。下校コースにあるY字路で紬は愛華の、ウチに遊びに来ないかとの誘いを断った。結局愛華は見つからず…。

 

 ピンク映画から出発し近年意欲作を発表し続ける瀬々敬久が芥川賞作家・吉田修一の同名小説を映画化。吉田修一の小説はこれまでも多く映画化されており、中には吉田自身が監督を務めて映画化したケース(『Water』。07年公開)もある。本作は瀬々自身が脚色し同じ吉田原作作品『横道世之介』(13)で注目された綾野剛、現在NHK朝ドラに主演している杉咲花、瀬々作品には頻繁に顔を出している佐藤浩市、大ベテランの柄本明、根岸季衣、村上淳の息子・村上虹郎、石橋凌&原田美枝子の娘、石橋静河などの共演。主題歌を唄っているのが上白石萌歌だったりとやたら豪華がキャスティングである。KADOKAWA配給で公開。

 

 12年後。高校を卒業した紬(杉咲花)は地元の祭りで吹く笛の練習の帰り、乗っていた自転車が後ろから来た車に追突される。運転していたのは豪士だった。その時壊れた笛を豪士は弁償すると言い、以来紬は豪士と親しくなる。そんな時また少女失踪事件が起こる。少女の捜索にはこの地の山奥で父の後を継いで養蜂業を営む善次郎(佐藤浩市)も加わっていた。すると捜索者の一人が12年前の事件の時豪士の挙動が怪しかったと言い出し、あっという間に豪士は被疑者に仕立てられてしまう。捜索隊の連中は豪士の家に押しかけ出てこいと怒鳴る。飛び出した豪士は蕎麦屋に逃げ込み籠城、逃げられないと分かるや投身自殺…。

 

 閉鎖的な村社会の生贄にされた感のある豪士と善次郎。豪士の母は外国人らしくそれが為に豪士は日頃から白眼視されていた。そんな母子に手を差し伸べていた藤木も孫を手にかけたのが豪士かもしれないと聞くや掌を返して迫害する側に回る。善次郎は村の為にと提案した事が裏目に出て村八分にされ、もう生きる場所がないと観念して凶行に走る…と、行き場を失った曳かれ者たちの慟哭を聴かされている様な錯覚を覚え暗い気持ちに駆られるが、それが今の社会の一断面であるとしたら「暗いからダメ」と斬り捨てる訳にはいかないのか…。癌に罹ったヒロインの友人が「楽園を作れ」と希望を失っていないのが救いではある。

 

作品評価★★★

(現在の事件に関しては豪士は無実だった。しかし12年前の事件は藪の中というか、ヒロインの想像上では犯人かも…という曖昧な結論になっているのは現実の事件をモデルにしているからか? 観ていて割り切れなさは残るけど瀬々監督の人物描写には適格な物を感じる)

 

映画四方山話その614~『あいつと私』のモダン感覚

 60年代までは頻繁に映画化されてきた石坂洋次郎の小説だが、中平康が監督した『あいつと私』(61)は他の石坂原作映画とは全く違った感覚があった。ある意味早すぎた傑作と言えるのではないだろうか?

 ヒロイン(芦川いづみ)は当時はまだ世間では数少なかった四年制大学の女子大生。主人公(石原裕次郎)は突飛な行動と発言が目立つ同じ大学の同級生。如何にも良家の子女という感じがあるヒロインと複雑な家庭環境に育った主人公が衝突を繰り返しながらも愛を育んでいく…というストーリー。

 裕次郎は既に『陽のあたる坂道』(58)で石坂原作映画に主演し、やはり複雑な環境に生まれた青年を好演していた。しかしその時の裕次郎と本作の裕次郎ではテイストは全く違う。ナイーブさが前面に出ていた『陽のあたる~』とは違い本作の裕次郎は好戦的というか、言いにくい事もズケズケ言ってしまうタイプ。ヒロインに「衝撃の告白」をした後もショックで激しい雨が降る屋外に飛び出したヒロインを強引に抱きしめて唇を奪う。こういう女性に対する主人公の荒々しさは従来の石坂映画とはかけ離れた物だ。

 主人公を取り巻く人間像も安保闘争にのめり込んでいる女子学生、結婚が決まるとあっさり大学を辞めてしまうブルジョア娘、喋り出し止まらない「マシンガントーク」をかます中平組の常連だった中原早苗、夫がある身ながら「自由恋愛」を満喫している主人公の母親、轟由起子など女性陣はかなりアッパーなキャラクターに仕立てられている。それに比べると絶えず家出未遂を繰り返す主人公の髪結いの亭主的な父親(宮口精二)や、『貸間あり』(59)の「天ぷら学生」そのまんまな小沢昭一など、主人公以外の男たちは女性陣の威力に押されやや形無しという感もあるが…。

 中平康の早いテンポの演出はともすれば湿っぽくなりがちなストーリーを活性化させる事に成功しており、そのモダン感覚の冴えは中平が忌み嫌っていたという浦山桐郎の作家世界とは見事なまでに対照的だ。良くも悪くも浦山の文学青年崩れみたいな作風は70年代末頃にはすっかり時代遅れとなってしまった感がある。その浦山亡き後中平康の「再評価」の動きが活発化していったのも何かの因縁だろうか。