警視庁捜査一課の岩淵謙輔(田中邦衛)の悩みの種は一回り歳が違う弟・謙治(栗原千里)の事。入学した大学にも行かず怪しげな店に出入りする弟に説教しても謙治は反抗するばかりだった。謙輔はとある外人が麻薬中毒死した事件を担当しており、外国人絡みの麻薬組織を挙げる為に潜入捜査していた外事課の久保(加山雄三)と組んで捜査に当る事に。謙治はゴーゴークラブで喧嘩し警察の世話になるが、クラブ経営者の悠子のお陰で弁償金を払わずに済む…。

 

 今や俳優界随一の大物俳優になったと言っても過言ではない田中邦衛。彼が良く知られる様になったのは東宝の『若大将』シリーズレギュラー出演からであろう。その若大将シリーズも71年正月興行でひとまずエンディングを迎え、同じコンビで新作を…と期待を受け製作されたのであろう作品が本作。何とこの作品の主役は田中邦衛。それ以前に田中邦衛は人気TVドラマの映画版『若者たち』シリーズで主演を務めた事があり、それ以来の主演作という事になる。小林正樹の助監督だった稲垣俊が監督&脚本を務め、田中が当時所属していた俳優座と東宝の提携作品で、同じ俳優座の所属俳優がこぞって出演。ヒロイン役には野際陽子が。

 

 その晩悠子の家に泊めてもらい彼女の怪しげな魅力の虜になってしまった謙治。悠子が謙輔の元恋人とは知る由もなかった。更に組織関係と思われる殺人事件が連鎖し、謙輔と久保の捜査は着々と絞られていったが捜査線上に悠子、彼女と親しくしている謙治の存在が浮上してきた事に謙輔は愕然とさせられる。再度謙治と差し向いで話し合いマトモな事を考えろと諭す謙輔だったが、謙治の兄に対する反発は益々強くなっていくのみ。意を決して謙輔は悠子と再会する。悠子は謙治との事は心配するなと言い、暗に自分の部下である西川が組織に深く関わっていると漏らす。しかしそれが組織にバレ悠子もまた組織の手で殺される運命…。

 

 観る前はてっきり田中と加山が兄弟役だと思っていたが、加山はあくまで主役としてはインパクトが弱かった?田中のフォロー的助演で、生き方が全く違う兄弟間の葛藤という人間ドラマが主軸になっている。しかし弟が兄の元恋人と…に下りはあまりにもご都合主義。既にべテラン俳優だった田中に比べ弟役俳優の線の細さも気になるなあ。71年という状況を踏まえてのドラマ作りを志したのだろうが、都会のアンダーグラウンドな世界の描写も形だけいう感じでリアリティ薄いし、ラストも無理やり感が強く消化不良なのは否めず。兄弟の絆というテーマならばもっと普遍的な設定の家族ドラマでいいと思うのだが。全てにおいて中途半端な作品に。

 

作品評価★★

(製作当時無名だった中村敦夫や古谷一行が出演していたり、田中&加山の若大将シリーズ以外の共演も含めカルト映画的なお宝度は高いが、作品充実度は低レベル。尚稲垣俊は監督作はこの一本だが、その後も小林正樹作品には深く関わっている事は留意しておきたい)

 

映画四方山話その593~アングラ映画ブーム

 今回の作品で唯一微笑ましかったのは、内偵捜査中の田中&加山が捜査の手がかりを求めてアングラ映画上映会に潜り込むシーン。意図不明の映画に心底うんざりしている田中の表情が笑える。確かにこの主人公にはアングラ映画には向いていない。大映の母物映画とかが好きそうな人物像だし(笑)。

 日本のアングラ映画ブームといっても当然俺は同時代ではなく後追い世代だが、アングラ映画上映館として有名だった新宿の『蠍座』に行った事はある。しかしその頃の蠍座は最末期でアンダーグラウンド映画ではなく日活ロマンポルノ再映館になっており、そこで俺は前の人の頭がスクリーンを遮る最悪場状況で藤田敏八の『八月の濡れた砂』『八月はエロスの匂い』を観た。

 アンダーグラウンド映画の最盛期は68年頃だったと思われる。米国から輸入されたヒッピームーブメントが「サイケ」や「フーテン」「ハプニング」といった新宿風俗となり、それに感化された若者たちが16ミリ映写機を手に好き勝手な映画を製作し始めた。

 通常の映画監督のみならず映画理論家、アングラ映画製作者でもあった松本俊夫の『薔薇の葬列』(69)に、フーテン風な若者たちが古いテレビを揺らしてわざと画面を乱れさせそれをムービー撮影する…というシーンがあった。ストーリーもへったくれもない意図不明な映像という意味では絵画の抽象派に近い感じもあるが、早い話映像でのトリップを試みたという事だろう。そういう意味ではストーリーにガンじがらめにされた映画からの逸脱であり、やはりアングラ映画も作っていた寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』(71)の、ラストの佐々木英明のモノローグでもそれに対応する様な事が発せられていた事を思い出す。

 

 

 ただそれだけアングラ映画がブームになると当然ながら作り手側各々の思惑の違いや上映会を運営する側とのズレが生じ同じ69年に主導権争いの末、その年予定されていた『フイルム・アト・フェスティバル”69”』が中止になる…という騒動が起きている。それはアングラ映画を自分たちの売名行為とも捉えていたとされる雑誌『映画評論』編集長佐藤重臣(映画評論誌上で映画に限らずアングラ演劇や前衛舞踏などの紹介にページを割いていた)、映画評論家で訪米時代が長く、アングラ映画の製作経験もある金坂健二たちと、作品を自由に上映できるなら草月会館などの「体制派」との協力を仰ぐのも止む無しとする松本などの一派との対立がその原因だった…とされる。

 上映会中止後アングラ作家の流れはこの二つに分派したが、金坂は佐藤とも揉めた後アングラ映画関連から完全に身を引き(松本らに「口先だけでアングラ映画愛を語っていた輩」と厳しく批判された)、松本も70年大阪万博『せんい館』での映像プロデュースを担当した事で「体制に身を売った男」と大島渚らの厳しい批判を浴びた。

 今の感覚で言えば映画上映する場所がどうとか、アングラ映画に関わる事が売名行為だとか、そんな事が何で問題になるの?と言いたくなって当然だろう。しかし当時の状況はそれを許さなかった。たかが自前で作った作品を上映するだけで主体性を問われかねない時代だったのである。

 70年代に入ると金井勝など一部の作家を除いてアングラ映画を製作する作家たちが沈黙を余儀なくされていき、アングラブームは呆気なく終わったが、佐藤重臣は『映画評論』休刊後は評論家活動の傍ら外国のアングラ映画のコピー版を買い付けて所有し、それを自主上映したり貸し出ししたりしてアングラ映画への拘りを亡くなるまで貫いた。カルト映画ブームの走りとなった『フリークス』『ピンク・フラミンゴ』も。元々は佐藤が所有したコピーフイルムを上映した事から火が点いた物だった。

 金坂健二はアメリカ文化論を根底とした映画評論で『キネマ旬報』誌を中心に執筆活動をしていたが。80年代になると徐々に評論活動から身を引いていった様で、99年に亡くなる寸前は英会話学校の教師でシノギしていたらしい。映画オタクがそのまんま映画評論家になってしまう様な時流からはずれてしまった…という事か。

 松本俊夫はアングラ映画ブームが去ってもアングラ映画ならぬ「実験映画」にこだわり続け作品製作も旺盛だった。80年代に入ってからは芸術系大学で教鞭を執り後進の実験映画作家を育てた。彼もまた自分の流儀を貫いたと言える。