スポーツ界においてドーピング問題がクローズアップされたのは、1988年のソウル五輪の陸上競技男子100mで世界記録を出し一旦は金メダルに輝いたベン・ジョンソンのドーピングが発覚してメダルをはく奪された事が原因だろう。。

 尤も陸上競技ではそれ以前からドーピング問題は囁かれており、東西冷戦時代にソ連や東ドイツの選手を中心にした東側諸国が出した世界記録が今もって破られていないのは実に怪しい。当時のドーピングテストは今とは違い精密ではなかったので見落としたケースがかなりあると思われる。

 エンタメ系スポーツであるプロレス界でも、実は60年代から米国マットではステロイド(筋肉増強剤)を打って手っ取り早く筋肉隆々な体を作るレスラーは多かったと聞く。特にパワーレスリングをモットーとする旧WWWF(後にWWF、WWEと改称)ではレスラーがステロイドを打つのは当たり前になっていたらしく、80年代『タイガー・チャン・リー』のリングネームでWWFに上がっていたキム・ドクもステロイドを常用していた事をカミングアウトしている。

 スポーツ界でのドーピング問題が話題になるのを重く見たWWEは91年よりドーピング検査を所属選手に施した結果、主だった中心選手の殆どに陽性反応が出たと言われているが、詳細は明らかにされていない。ただ元所属選手が若くして命を落とすケースが多いのはステロイドと全く無縁とは思えぬ節もあるのだが。

 そんな中明確にステロイド使用が明らかになった選手もいる、皮肉にもステロイドとは無縁な日本のリングで育った二人のレスラー、ダイナマイト・キッドとクリス・ベノワだったのが哀しい。

 ダイナマイト・キッドといえば70年代に国際プロレスに初来日、新日本に移籍してからはあの『タイガー・マスク』初試合の相手に選ばれ、その後タイガーマスクのライバルとしてジュニア戦線で活躍。軽量ながら切れ味鋭いブレーバスターやダイビング・ヘッドバッドはインパクトがあった。従兄弟のデイビーボーイ・スミスとタッグを組んでからは全日に移籍してヘビー級戦線に転出。80年代半ばからはスミスと共にWWFに本格的に参戦して人気を博した。

 元々オフリングでも気性が荒かった事で知られるキッドだが、ステロイドに手を染めたのはナチュラな体ではWWFのリングでトップ戦線に食い込めないと考えたからであろう。デカいレスラーが優遇される米国マット界では日本とは違いジュニアヘビー戦線は「格下」扱いされる。それが我慢ならずキッドはステロイドを打ち続け、その後遺症で現役引退後は車椅子生活を余儀なくされ18年に60歳で亡くなっている。WWF転出を考えなかったらこんな若死にもせず、レジェント扱いで今でも日本のリングに上がっていたかもしれないのに…。

 クリス・ベノワはそのダイナマイト・キッドに憧れて87年に来日、新日本プロレスの練習生になっている。当時の新日の練習の厳しさは群を抜いており、べノワは指導役の佐々木健介のしごきを見て「いつ死人が出てもおかしくない」と思ったという(実際に練習生が亡くなっている)。

 最初は『ワイルド・ペガサス』名の覆面レスラーとしてリングに上がったが、獣神サンダー・ライガーとのマスク剥ぎマッチに敗れてからは『ペガサス・キッド』名でジュニア戦線で活躍。90年代前半は外人ながら新日ジュニアのエース的な活躍をした。当時の俺は新日アンチだったので彼の試合にはキッド程の鮮烈な印象は持っていないのだが…。

 そんな彼も90年代後半から米国マットに進出。ECW、WCWを経てWWE所所属レスラーとなる。WWEでは妥協なきストロングスタイルのファイトが売り物で、他のレスラーに要求されるギミックやリング外のサイドストーリーなどは一切なかった。彼なりに新日道場で学んだストロングスタイルをWWEでも貫きたかったの意志が強かったのかもしれない。ただ重戦車を思わせる胸板の厚さは見た目から尋常じゃない物があったけど。

 そんなクリス・ベノワは07年自宅にて妻子を殺した上で自殺するというショッキングな死に方をした。直接の動機は完全にはっきりしてはいないけれど、ベノワがステロイドを常用していたのは事実らしい。佐々木健介のしごきに眉をしかめた彼がこんな死に方を選ぶとは思ってもみなかった。この事件後WWEのステロイド対策は厳しい物となり、抜き打ち検査で陽性が出れば選手は数週間の試合出場停止処分、二回陽性が出てしまうと解雇という建前になっている。そしてWWEの歴史には「クリス・ベノワ」という選手は端から存在しなかった事にされている。

 

 日本のプロレスと米国のプロレスは似て非なる物である。ダイナマイト・キッドもクリス・ベノワも当初その違いになかなか馴染めないまま周囲に合わせ手を出してしまった…という事なのか。二人の様に選択を誤った様に映るレスラーもいれば、日本での下積みレスラー経験をバネにWWEでトップレスラーにのし上ったクリス・ジェリコの様な成功者もいるのだから、やはり日本のプロレスは奥深い魅力があると思うのだが。