俺がまだ金沢在住時代だった頃、浅川マキは既に孤高の存在だった。石川県は彼女の出身地なので頻繁にライブを行ってもいいはずなのに、彼女がその気にならないとなかなか実現は難しいと言われており、その音楽性もあってかかなり気難しい人だと思われていたみたいだ。それでも地元で行われた大きな野外フェスでライブを観る機会があり、彼女の生歌もそうだが『それはスポットライトではない』での、ドラマーとしてライブに参加していたつのだひろのソウルフルなヴォーカルに感動した事も記憶している。

 そんなマニアックな印象が強い浅川マキだが、歌手デビュー時はミニスカートを履いてステージに出ていたというから驚き。尤もそれは彼女の本意の形のデビューではなく、今後の活動を模索していた時に出会った人たちの中の一人が寺山修司だった。彼に導かれて68年、当時アート映画&演劇のメッカであった『新宿文化劇場』の地下にあったアンダーグラウンドシアター『蠍座』でワンマンライブを三日間に渡って開催、それが評判になって再レコードデ ビュー。69年1月に発売した『夜があけたら/かもめ』がヒットした事からアルバムデビューもトントン拍子に決定。それがさっき聴いた『浅川マキの世界』だ。

 アルバムはスタジオレコーディング(A面、B-1)と蠍座のライブ(B面2~6)で構成されており、ライブパートの構成を寺山が担当した。録音に参加したミュージシャンはジャズ系の人で占められており、浅川マキとは長い付き合いになっていく吉野金次がミキサーを担当。

 

 アナログA面1曲目は件のシングル曲『夜が明けたら』。夜が明けたら一番電車に乗ってこの街を去るわ…という浅川マキ自作の歌詞は、多分ラングトン・ヒューズのブルース詩『75セントのブルース』からの影響があると思われる。その詩を文章や映画の脚本に引用していたのが寺山で、それ故浅川マキに興味を覚えたのだろう。エンディングの蒸気機関車の音が飛行機のSEにかき消されて次曲『ふしあわせという名の猫』へ。作詞は寺山。簿幸に憑りつかれた女の嘆き節みたいな詞と、バックで奏でられるフルートの音色が寂寥感を募らせる。セカンドシングル『ちっちゃな時から』のB面としてシングルカット。

 3曲目『淋しさには名前がない』は浅川マキ作詞作曲。チェンバロのイントロから聴き手に語りかけてくる様なマキの独特の歌唱は、正に後の浅川マキワールドで、その碑となった記念すべき曲。

 4曲目『ちっちゃな時から』は作詞はマキだが作曲は他人。成程バッキングは当時人気があった中村晃子などと同様な「パンチのある歌謡曲」風のアレンジになっており、その辺はマキも妥協したのか。彼女自身は不本意だったかもしれないけど、60年代歌謡曲シーンを彩った名曲である事は間違いない。

 5曲目『前科者のクリスマス』は寺山作詞。パイプオルガンぽい音が不吉感を誘発させ、マキのヴォーカルは何処か投げ遣り風。歌詞はアングラ演劇の劇中歌風でもあり寺山らしいと言えるのだが。

 正に寺山演劇その物な演劇風小芝居のSEを挟んでA面最後の曲『赤い橋』に。『フォ―ク・クルセダーズ』時代マキとレーベルメイトだった北山修が作詞。「赤い花」に象徴される女の怨み節みたいな詞と日本的風土を醸し出すメロディーは、他の楽曲とくっきりとした差別感があるのだが、本アルバムの代表曲である事は間違いない。

 

 アナログB面1曲目『かもめ』は初期のマキの代名詞ともなってる曲(作詩は寺山)。やさぐれ女を唄わせると確かにマキの右に出る者はこの時代にはいなかった。アレンジはやはり当時の歌謡曲風にまとめてある。

 2曲目以降は蠍座でのライブ。『時には母のない子のように』の原曲は黒人霊歌だが、寺山はメジャー受けする様にメロディーを変えカルメン・マキに唄わせて大ヒットさせた。ピアノをバックに英詞で唄うマキは、レコード上で聴いてもカリスマ感たっぷり(拍手のSEは大袈裟だが)

 3曲目はあまりにも有名なアダモの『雪が降る』のカバーだが、マキの語りも入って思いきしダークな世界観に場は染められてしまう。そんな風に音楽ジャンルの垣根を越えた所に浅川マキは位置していたと言えるのだ。

 当時流行していた「ハプニング」的な街頭インタビューのSE(サクラとして登場するのはカルメン・マキか?)を挟み、以降は寺山作詞の曲が三曲並ぶ。『愛さないの愛せないの』は、寺山の詩人に一面を強く感じさせる詞で、園まりとかが唄っても違和感ない感じがする。アレンジはジャジーではあるけど。

 バイクの轟音のSEを挟み次の曲『十三日の金曜日のブルース』。男と別れる辛さを募らせる女の心の切なさを唄う4ビート曲だが、バックの音量抑え気味でマキのヴォーカルを際立たせており、ライブならではの臨場感が味わえる。

 その後サンプリングじみた混沌としたSEが入り最後の曲『山河ありき』に。昭和前期を彷彿とさせる時代設定の中、もう実家に帰る事もままならぬ女の望郷の念が唄われる。寺山にしては珍しい濃厚なストーリー性ある詞で浅川マキも唄っているというより、歌の世界を演じてるといった方が正確かも。

 

 浅川マキの代表作としてこのアルバムを挙げる人は多いし、実際俺の年長の友人も生涯の愛聴盤としてチョイスしていた。確かにこのアルバムでリアルタイムに浅川マキの出現を知っている人には、その衝撃性は何物にも代え難いという事だろう。

 しかし遅れて浅川マキに触れた俺みたいな人間には、このアルバムはまだ試行錯誤した段階だった様に感じられる。彼女の本領は寺山修司から離れ気の合うミュージシャンとのセッションの形でアルバムを作っていった「この後」であると俺は信じる。だから本作は浅川マキのというより、浅川マキを中心に据えて70年前後という時代の断面を物語るという意味で貴重なアルバムだと思う。

 

 上京してからも浅川マキのライブを観た事もあったけど、強く印象に残っているのは交流が深かったベーシストの山内テツのライブに押しかけゲスト出演した時の彼女。普段着で現れ自分のライブとは全く違い躁状態で喋りつづける彼女に、俺を含めた観客は呆気にとられっぱなしであった。自分の音楽には厳しかったが素顔は案外気さくな人だったのかも。