今『Jスポーツチャンネル』ではWWEの過去のPPVのプレイバック放送をやっていて、結構多忙な身ながらも録画し観てしまうんだな。ショーアップした番組スタイルはやはり日本のどインディーズ団体なんかとは比べ物にならないくらい洗練されており、現在の新日本プロレスに与えた影響も大きいと思う。

 そんな今が盛りのWWEだが、90年代に入るまではWWE(当時の名称はWWF)の認識度は日本のプロレスファンにはそれ程でもなかった。WWFの名が定着し始めたのは90年4月13日東京ドームで開催された『日米レスリングサミット』からだろう。全日本プロレスと新日本プロレスも協賛して行われたこの興行だが新日本は所属選手同士の試合を提供しただけに終わり、実質的にはWWFと全日本の対抗戦の形になった。俺は生観戦はしなかったがTVで鑑賞。天龍とランディ・サベージの試合が好評だったが、俺が一番印象に残っているのは「スネーク」と異名を取るジェイク・ロバーツ(大蛇を入れた麻袋を持ってリングインが恒例)の必殺技『DDT』。これ以降DDTは日本のレスラーも多用するポピュラー技として定着した。そしてメインイベントで突如病気欠場したテリー・ゴーディの代理で対戦したスタン・ハンセンを倒したWWFのエース、ハルク・ホーガンのしつこいまでの決めポーズ(耳に掌を当て観客の歓声を聞く)も印象的であった。

 この興行の成功に自信を得たWWFは愈々念願の日本単独ツアーを計画。それが94年5月に行われた『WWFマニアツアー』全4戦。俺は開幕戦の横浜アリーナ大会を観戦したのだが、顧みようとしても記憶が殆ど蘇ってこないというか、ロハ(TV)で観た日米レスリングサミットの方が鮮明に覚えている。わざわざ金を払ったのに覚えていないとは。唖然…。

 そこでネット検索して当時の試合結果を調べてみた。試合は全部で10戦。メインイベントは「ヒットマン」ことブレッド・ハートと「ラッチョマン」ランディ・サベージのWWF認定世界ヘビー級選手権。当時の王者がブレッド・ハートだった事は覚えているから彼が出場していた記憶はあるが挑戦者がランディ・サベージだった事は覚えていなかった。セミファイナルで天龍とジ・アンダーテイカーがタッグを組んで闘っていた事も完全に忘れていた。相手が「クラッシャー」バンバン・ビガロとヨコヅナって、相撲出身同士の夢の対決が実現していたんだ!(嘘だけど)。

 日本選手では天龍の他に当時WWFと契約していたブル中野、後に『白使』名でWWF所属となる新崎人生、空手出身の青柳政司、天龍の『WAR』所属だった平井伸和…って、渋いを通り越し天龍、ブル以外はB級感アリアリの面子だ。何故こういう面子になったかというと、全日や新日はWWFの本格的な日本進出は商売敵だと捉えて選手の貸し出しを拒否、加えてWWF側の日本のプロレス界へのリサーチ不足がネックになったと言えるだろう。青柳に至っては自分が設立した団体『新格闘技プロレス』からの退団を一方的に宣言した直後の参戦だから、試合内容以前に参戦する事自体がプロレスファンの批判を浴びていた。

 更にWWFも遠征費をケチってる感アリアリでレスラー用の花道すら設置されず、出場選手は入場テーマに乗って通路を歩いて登場する愛想の無さ、大体アンダーテイカーなんてリングに向かうまでの一連のムーブで金を獲れるレスラーなんだから、それなりの入場演出をしてくれないと魅力が半減してしまう。そんな感じで見切り発車してしまった印象が強く、全体的に盛り上がらなかった興行であった事だけは覚えている。

 そんな風に横浜アリーナとしては記録的な不入りに終わり、プロレスマスコミにもクソミソに叩かれた開幕戦だったが、そんな中で唯一存在感を出していたのがWWFがWWWFと名乗っていた70年代後半長らくヘビー級チャンピオンだったボブ・バックランド。当時バックランドは「ミスター・バックランド」という尊大な態度のヒールレスラーとしてWWFのリングに復活していたが、この日登場したいで立ちはそれとは異なるアマレススタイルのコスチューム。彼だけが入場テーマ曲無しでヌッと通路に現れた時この日一番の歓声が。それを聞いたバックランドは感激のあまり、思わず通路付近にいたファンと熱い握手を交わす一幕も。形はどうあれ全盛時代猪木と激闘を交わした日本での試合にカムバックできた事が嬉しかったのだろう。尤も試合はあっさりアダム・ボムというB級レスラーに敗北してしまったが。

 結局懐かしのバックランドの雄姿を拝めただけが収穫だったWWFマニアツアー開幕戦。出場していたビガロも「米国と同じ事をやれば成功したはず」とWWFの不手際を批判。これに懲りたWWF(WWE)は地上波TVでのハイライト番組の放映から仕切り直しをし、ゼロ年代になって漸く日本のプロレスファンにも広く受け入れられる様になっていったのであった。