川崎ゆきおの『猟奇王』シリーズを始めて読んだのは、知り合いに借りた月刊『ガロ』73年一月号に載っていたシリーズ三作目に当る『大東京猟奇の夜』だったはず。当時のガロは安部慎一や鈴木翁二といった「中央線一派」の漫画家が人気を博していたが、川崎ゆきおの漫画はそれらとは全く違うテイストで、まあ誰かが後で言ったけど「駄菓子屋感覚の漫画」というのが一番ピッタリする形容だ。
主人公の猟奇王は仮面をつけた、大阪の夜を支配しようと目論む怪盗だが、既にそういう怪盗が暗躍する時代はとうに過ぎ、どういう計画を立てれば「メジャー怪人」になれるか思い悩む日々で、配下の吉本新喜劇の役者みたいな顔をした忍者(甲賀流忍術の使い手だが、ガロで白土三平の『カムイ伝』の連載が終了し、今となっては彼も時代錯誤感を免れない)共々暇を持て余しているが、それもええい、ままよとばかりアドリブで(笑)犯罪計画に走る傾向があり、それでマイナーながらも波紋を起こす…という一話読み切り漫画だ。
その稚拙な画風故になかなか単行本を出そうという勇気ある出版社は現れなかったが、79年に大阪の情報誌『プレイガイドジャーナル』(今は存在しない)が出版を請け負い79年に発売されたのが、今回取り上げた川崎ゆきおの処女作品集となった『猟奇王』だ。
本書にはガロで発表済みの『猟奇王』シリーズから六篇が収録されている。猟奇王を追い詰める役割の私立探偵の沢村(悪役系俳優の内田朝雄みたいな容貌)と、その甥で体臭や屁の臭さが強烈な通称「便所バエ」、更に猟奇王のライバルを自認する個性的な怪人も登場し、めくるめく猟奇王と彼らの激闘が展開される…という事は全くない(笑)
川崎ゆきおの漫画全体に通じる独特の間の抜けた会話は、関西という土壌を良く認知していないとと単なる悪ふざけとしか捉えられない…というか、確かに劇画の最大特徴である「リアリズム」とかけ離れた緩い展開が続くのだが、それでも漫画のコマの所々に、せちがない現実社会へのアンチ的視点が伺えるのが面白い。
時代錯誤者や社会不適応者。川崎ゆきおが偏愛するのは生産性とやらを要求される規範的な社会から必然的にはみ出してしまった人たちであり、猟奇王のキャラクターはその象徴だと言える。ここでの「猟奇」とは性的な変態性を顕すのではなく、「かぶき者」の意味だろう。考えてみれば猟奇王が指標とする「怪人二十面相」自体、普通に泥棒だけやってればいい物を無駄に虎やら豹やら、果ては「電人M」なるロボットの被り物までして深夜の帝都を歩いたりする。俺が子供の頃に読んだ「怪人二十面相」はそんな、滑稽なまでの自己顕示欲に駆られたかぶき者だった。
その怪人二十面相を目指しつつ、猟奇王のアドリブ的な犯罪計画はいつもグズグズに尻つぼみ的に終わってしまうのだが、その馬鹿々々しさと同義の涙ぐましさが、逆説的にいい会社への就職を目指して血眼になって勉学に励むような人生の味気なさを、俺に説いてくれた様な気がする。
大袈裟に言えば、猟奇王は堂々たる社会不適応者であった俺にとって精神的な「グル」に近い存在であり、後に俺は自分で結成した素人映画製作集団に「猟奇舎」という名前を付け、あの浦山桐郎監督にその名前を憶えてもらう栄誉?にも浴した。
本書には猟奇王シリーズ以外にもガロに掲載された、子供の頃の不可思議な記憶を描いたショート漫画も収録されていて、こちらは笑いの要素抜きだが子供時代ならではの多感さや好奇心が滲み出ていて意外な広い物だった。「遠足で一人でお弁当を食べなければいけないかもしれない恐怖」なんて、社会適応者には味わった事のない感情だろう。
描く漫画の登場人物の社会不適応ぶりそのまんまに、川崎ゆきおの漫画は編集者受けはしても一般的な読者には殆ど受けなかったみたいで、漫画家として大成せずに現在に至っている(どうやって食っていたのかな?)。ただいち早くネット社会にはいち早く対応し、電子書籍などで自作漫画を発表、販売もしているとの事。
猟奇王シリーズ8『便所バエの悲劇』より