今回読んだ『俺たちの季節(とき)』の冒頭に収録された『魂の歌』(『ボーイズ・ライフ』67年12月号)の扉絵に添えて、宮谷一彦はこう書いている。

「おれたちは アウシュビッツ収容所で 今まさにガス室に送られようとしている全裸のユダヤ女の記録写真を見ながら、オナニーにふけることができる世代だ」

 現在漫画誌にこんな事を書こうものならネットで大炎上は必至、漫画の執筆もしくは連載はたちまちの内に終了し、もしかしたらその漫画誌自体も休刊になりかねない。だが60年代は「喧噪」の時代であり、この様な過激発言も作家の「個性」として許容された。宮谷一彦はそんな過激な漫画家として60年代後半期を疾走したのであった。

『俺たちの季節』は宮谷の通算4冊目となる作品集で、収録された作品は67年から70年にかけて描かれた物だ。まだ20代前半だった宮谷の迸るパッションがどの作品にも滲み出ている気がする。

 これらの作品に通底するイメージはハングリー、かつ連帯を求めない孤立した若者像であり、それが鈍い彩りを放ち独特の世界観を形作っている…と言えるだろうか。

『魂の歌』は原爆症という十字架を背負ったサックス奏者の少年がジャズを極める事で生きる意味を見出すストーリー。チャールズ・ミンガスが作中に登場する遊び心も、ジャズがよりリアルだった60年代ならではであろう。

 ブルース詩人ラングトン・ヒューズの高名な詩をタイトルに抱いた『75セントのブルース』(『少年サンデー』69年4月6日号)は同じくジャズをテーマにしながらも、「その場所」に留まろうとする男とその場所から飛翔しようと考える後輩の少年との感情が描かれ、プチ同性愛的なテイストが独特の深みを作品に与えていると言える。

『太陽と潮騒の中で』(増刊『少年サンデー』69年8月号)はヨットに傾倒する少年を軸にした家族ドラマで、タイトルのせいか三島由紀夫の影響を感じさせる。ヨットを聖なる物と捉える少年ならではの抱える純粋さは、ある意味悲劇と隣り合わせなのだ。

『不死鳥ジョー』(『ボーイズ・ライフ』68年10月号)はリングというステージを失った元ボクサーのハーフ少年が歌という新たなステージを目指し苦闘しつつも邁進する姿を描く。主人公が唯一空で唄える歌がオーティス・レディングの『ドック・オブ・ザ・ベイ』というのが宮谷らしいというか…。

『セブンティーン』(『COM』68年7月号)は多分同名の大江健三郎の小説からインスパイヤされた物だろうけど、本作の主人公には大江版の様な根っこの思想性みたいな物は更々なく、18歳という死刑にもなりかねない年齢を前に苛立ちを暴力に、或いは年上の女の肉体にぶつけるのみなのだ。「(18歳まで)時間はまだ七カ月ある」の台詞が重く響く。

『あいつとオイルと枯草と』(『ヤング・コミック』68年6月11日号)『俺たちの季節』(『漫画アクション』69年1月30日号)はバイクのモトクロスレースにのめり込む若者を描いた連作ぽい作品。『あいつと~』は一方的にライバル視する有名レーサーを意識しながら女をも踏み台にしてのし上がろうとする主人公を思いきれず「純愛」を貫こうとする「陰の女」の存在が物悲しい。『俺たちの季節』は「チキンレース」で死と隣り合わせのスリルを味わう男たちに三角関係を絡めたストーリーで、三角関係の末のいざこざ含みのレースで仲間を失いつつも、まだレースから足を洗おうとしない主人公の姿が、今の視点で見ると眩かったりもするのだが。

『荒野遥かに』(『プレイ・コミック』70年4月25日号)は他の作品とはちょっと異なるウェットな作品で、都会で孤独を噛みしめる少年と少女のボーイ・ミーツ・ガール編。『サイモン&ガールファンクル』の『ボクサー』の訳詞が引用されており、何か真崎守臭い(笑)。結末も真崎ぽく重苦しく…。

『風に吹かれて』(『コミック・サンデー』68年7月25日号)の主人公は翻訳家兼童話作家となっているが、明らかに宮谷自身の投影像だろう。身辺雑記的な描写の中に学生運動にのめり込む友人やヒモと別れたばかりの女との出会いを絡ませていくスタイルは、宮谷の後の作品に連なる物があるし、ボブ・ディラン唄う『風に吹かれて』への深い思い入れなんかもまた同様。女のヒモに殴られつつも至極冷静に状況を分析する主人公の姿が面白い。

 

 ジャズ、ロックなどの当時「新しい」とされた音楽やバイクレースへの傾倒に、若かりし頃の宮谷が抱えていた「荒野」のイメージが伺えるのだが、宮谷がハングリーな男を鮮烈に描けば描くほど、主人公に関わっていく女の簿幸もまた際立ってしまうジレンマがあり、何か読了した後に痛ましさを感じ得ないでいられないのは俺だけだろうか? 70年以降の宮谷一彦の漫画には、そんな痛ましさのパーセンテージがどんどん多くなっていった気がする。 

『魂の歌』