音楽見聞録 -22ページ目

音楽見聞録

単なるリスナーが好きな音楽について勝手きままに書き散らかし。
CDレビュー中心のつもりが、映画や書籍など他の話題も。

 「自分」と「他者」との「境界線]を「バウンダリー」と呼ぶらしい。この「バウンダリー」という言葉は様々な場面で使われることがある。

 自分の体と外界との境界もそうだし、空間的なパーソナルスペースとしての漠然とした境界線、更に抽象的なところでは「責任」の境界についても及ぶようです。

 この中でも大きな問題が生じるのは「体の境界」と「心の境界」ということになる。

 で、人にはバウンダリーが緩い人ときっちり保っている人とが居る。
 例えばバウンダリーが緩むと「他者」の認識も緩んでくる。
 自他の境界が曖昧になりがちな人は他人の考えや意見に左右されることが多く、その結果、人からの影響を受けやすくなるという。
 ややこしいことに、その人のバウンダリーは一定ではなく、相手に応じて変化する。

 

 なんとなく分かります。

 この自他境界の曖昧さが極端に進んだ場合、人間関係に支障を来すなどの障害となるような事態につながる場合もあるし、そうなると生き辛くなることも出てくるでしょう。
 「自分の境界を他人にまで広げてしまうパターン」と「他者の境界を自分にまで広げてしまうパターン」、どちらにしても問題は深刻そうです。
 、、、と、これらの話は精神医療や心理学の分野で話題とされる「境界」について、です。

 興味のある方は調べてみてください。

 今回、書こうと思ったのは「自己」「自我」の境界についての話です。
 普段、自分自身が考えている「私」について。
 これに明確な線を引けるのか、漠然と考えてみる。
 明確な線を引くにはまずその「自我」が何であるのか説明できなくてはならないと思うのですが、これがなかなか難しい。

 「他者」とは異なる自分。自分は他の人とは違う。
 本当にそうなのか、上手く証明できるのだろうか?

 自分の腕を触ってみる。

 自分には当然わかるけれど、他者にこの感覚は絶対に伝わらない。「体の境界」については割と単純に説明できそうです。

 けれど「精神の境界」「心の境界」になると途端に分からなくなります。
 これは本当に自分「だけ」のものなの?
 イメージした「自分」の輪郭が限りなくぼやけて溶け出して行くように思う時があります。

 一つのものを細かく分解して行き、細分化した果てのそれが本当の「個」と言えるだろうか?
 或いはそれは一つを構成する要素でしかなく、その単位ではもはや「個」とは呼べないものなのか?

 「ヒト」もしかりです。
自分が「個」だと思っていたものが実は更に細かい何かの集合体であり、そうであるなら本来の境界は細部にあるのではないのか?
 だとすれば自分が捉えている今の境界は誤りになる。

 「境界」を持つべき「個」が一体どこのレベルを指すのか、良く分からない。

 自分が「自分」だと認識している「個」とは何なのか?何を根拠にそう考えているのか?
 「自分」の境界が疑われ、どんどん曖昧になって行く。

 「自分」だ、と認識しているこの「個」が、あくまでも屹立した個であるのか、或いは本当は集合体の一部に過ぎないとても曖昧な「個」でしかないのか、、、

 わたしはわたし、あなたじゃないってはっきり言えるか、、、


 「自分」の定義がぼんやりして行き、「自分」の正体がよくわからなくなります。

 

 大学時代の友達と従兄と一緒に山奥の地下建築を訪れた柊一は、偶然出会った三人家族とともに地下建築の中で夜を越すことになった。
 翌日の明け方、地震が発生し、扉が岩でふさがれた。さらに地盤に異変が起き、水が流入しはじめた。いずれ地下建築は水没する。
 そんな矢先に殺人が起こった。
 だれか一人を犠牲にすれば脱出できる。生贄には、その犯人がなるべきだ。ーー犯人以外の全員が、そう思った。

 

 これ、かなり面白かったです!!

 読みやすいし、楽しめる。お勧めの一冊です。