これまで、デンマークの記事で“ペタゴー”という単語を何度か使ってきました。

 

最初にペタゴーの説明を入れなかったので(すみません)、

 

“ペタゴー”って何?

 

って思っている人も多いだろし、

それに、

ペタゴーが、デンマークの教育ではとても重要な立ち位置にあるので、

 

自分の勉強も兼ねて、

まとめておきたいと思います。

 

 

「ペタゴー」とは、北欧で主流になっている職業で、

コミュニケーションを通して、子供たちの生活教育や支援をしていく人のこと。

各学校に必ず常駐しており、学校以外にも保育園・幼稚園、障がい者施設や高齢者施設、

病院、学童保育などでも活躍しているようです。

 

 

今回お邪魔した学校ももちろん例外ではなく、

全ての学校の説明の中で、必ずこの「ペタゴー」の言葉が出てきました。

 

 

デンマークでは、1906年に貧しい子どもたちの保育園が開設され、

1920年代~1930年代に「セミナー」という形で研修が始まり、

その後ペタゴーという職種が生まれ、2007年にペタゴーの養成を大学で行うことになったそうだ。

 

ペタゴーができたのは、割と最近の事。

 

ペタゴー養成のための「ユニバーシティー・カレッジ」は全国に8校。

学習環境は、教師と学生、学生間の議論によってそれぞれの考えを明確にしていく。

教師は「コーチ」として学生に向き合う。

議論や本を読む中で、さらに現場実習でよりベターな解決策を探して、仲間と議論する。

 

ペタゴーの養成は3年半。

大学入学後2か月は学内授業、その後、オリエンテーリング的な9週間の実習がある。

6か月の学内授業を終えると6か月の実習がある。その後1年間の学内授業、そして6か月の実習だ。

以上が卒業までのスケジュールだ。

 

一般教科は、教育理論/国語・文化・コミュニケーション/個人と社会(集団との関係重視)/健康・身体・運動(自分自身を好きになること、身体に自信を持つこと)/表現・音楽・ドラマ(感情を表現できる技術)/手工芸・自然・技術/トレーニングである。

とりわけ「他者との関係」「友達づくり」はとても重要と話された。

 

表現活動や音楽、ドラマなどの感情を表現する技術やコミュニケーションの授業では、自分を表現するだけでなく、

直接処遇する相手の方の表現も読み取れることが目的となる。

 

その話のなかで「民主主義的市民」という言葉が何度も出てきた。

また、「自然、技術」では、土壌からテーブルに乗るまでをトータルに考えるという。

これらは人と接するための技術、活動の幅を広げられる技能、

社会の一員としての自分と相手という理念を学ぶと考えればいいのだろう。

 

ペタゴーには3つの特別専門コースがある。

1.児童・青年(保育、18歳未満のさまざまな施設、学童保育、青年余暇クラス)

2.社会的問題を抱えた人(アルコール依存症、精神障害、親がアルコール依存の子ども)

3.身体的精神的な機能が低下した人たち(自閉症、ダウン症、発達遅滞の子ども)

という理論を学び、グループディスカッションやグループワークに積極的に参加し学んでいく。

 

6か月の実習は実際に現場で働き、給料が支給される。

学生に責任を与え、自らの手で体験し、テーマのあるアクティビティーを自ら企画し、

それを実行した後に教授らの前でプレゼンテーションを行い、

不合格なら再度6か月の実習が行われる。

理論と実践の絶え間ない学びの交流。教師に支えられ、自ら学び、テーマを決めて実践し、自ら答えを考える。

 

 

デンマークへの出発前、

北欧の教育イベント、デンマークのイベント、様々な勉強会に参加し、

また自分でも北欧の教育を勉強したが、

ここまで重要な役割を担っている「ペタゴー」というものについて、

完全に無知の状態だった。

 

本当に、どこの教育機関でも耳にした「ペタゴー」は、

デンマークにいる間に、少しずつそのニュアンスを感じ取ったくらいで、

今、その養成課程について知ったことで、

理解が深まった。

 

ペタゴーに、3つの特別専門コースがあるということは、

様々な状況に置かれた子どもたちへ、

専門的な視座から、厚いサポートができることを意味している。

グリーフサポートのような活動も、ペタゴーと共通部分があるのだと感じる。

そのような専門性を持った大人が、各教育施設にいるという現実。

 

そして、“民主主義的市民”の育成に、国が重きを置いていること。

これは、現場の様々な学校でも感じたこと。

 

 

 

また、私は、日本の教員養成課程も、大きく変わるべきだと思っていて、

たった数週間の教育実習で教員免許を取得できてしまうことや、

また、“教育実習”を受け入れる学校側の体制など、

挙げれば問題はキリがないけれど、

 

兎にも角にも、

こんな状況では、負のスパイラルから抜けられないのではと感じている。

 

私自身もそうだけれど、

『日本の学校』というところで成長し続け、

その最終機関である『大学』を出て、

今度は『教師』として、また『学校』に入る。

 

しかも、数週間の実習しかしていない学生が。

 

そこで息切れしてしまう若手の先生は多く居るだろうし、

しかし、『日本の教育』の中にしか生きてこなかった、

その世界が狭ければ狭いほど、

『辞める』なんて選択肢は恐怖でしか無く、

 

『辞めたいけれど、辞めてどうするの?』

 

本来ならば、ここで、“じゃあどうしようかな?”

を考えて、自分の人生を快適なものに創造していく力が、教育によって育まれているべきなのだけれど、

一途に教師を目指してきて、

「言われたことを言われたとおりに」

「集団を乱さないこと」

「一つのことをやり遂げる美学」

その価値観の中で、どうすることもできず、

自分を追い詰める結果になりかねないのが現状だ。

 

 

現場に出て初めて、

多少の違和感を覚えても、そこに向き合うことなく時間は猛スピードで過ぎていく。

知らぬ間に消耗していくか、

あるいは、“そのスタンス”で突き通すか。

 

 

日本の教育現場が抱える問題は、どこか一か所ではない。

全ては繋がっていて、それが循環している結果だと思っている。

 

 

つづく

 

 

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年8月号