「ホロコースト」は一回的か? | ヴァージニア日記 ~初体験オジサンの日常~

「ホロコースト」は一回的か?

今日は、昨日の話の続きを。


さて、この「ホロコースト」という語、

もともとはギリシャ語で「丸焼き(holokauston)」という意味の言葉で、

聖書では神に捧げるための焼いた生贄(動物)を指す言葉として

使われている。

(ちなみに、英語のbarbecueという語は、スペイン語のbarbacoa(丸焼き)

から来ているらしいので、もともとは同じ意味ということになる)


その語が、主として大火災によって多くの人命が奪われることを指すようになり、

それが、今日のような、

ナチスドイツによるユダヤ人その他の大量殺戮

を意味する語として転用されていったわけである。

(ユダヤ人たちは、クロード・ランズマン監督の映画の題名で有名になった

「ショアー」というヘブライ語を使うことが多い)

この語が普通名詞というよりは、そうした歴史による特定の事件を意味する語

として用いられるようになるにつれ、逆にこの語を、私たちの想像を絶するような

歴史上起こった他の大量殺戮に対しても同じように用いる(つまり再び「普通名詞

化」する)という用法も出てきた。


たとえば、スターリン時代の大粛清、ポル・ポト一派によるカンボジア人民の大虐殺、

ルワンダ内戦におけるフツ族によるツチ族の大虐殺、など50万人から数百万人の

規模で行われた大量殺戮に、この「ホロコースト」という語が用いられるようになった。

この語はさらに、比喩的な用法としては、

「絶対に許すことのできない生命の抹消や犠牲」あるいはそうしたことがらに対して

「見てみぬふりをすること」を非難するために、頻繁に使用されるようになっていく。


生命倫理の領域ではよくあることだが、必ずしも絶対悪とは見られていない事柄

(それを「仕方がない」と見なす人々も少なくないような事柄)についても、それを

強く非難する場合に、

「それはまるでホロコーストだ」「ホロコーストと同じだ」

というような言い方が用いられるわけだ。

(たとえば、中絶に関して。あるいは、薬価が高すぎるために治療薬を手に

入れられずに見殺しにされているアフリカのエイズ患者について。あるいは、

動物実験への反対運動で、「動物にとって、すべての人間はナチスである」

というスローガンが使われたり・・・)

で、こうした「ホロコースト」という語の拡大使用について、主としてユダヤ人に

よる猛烈な抗議、非難があり、そこではホロコーストの唯一性・一回性

が主張されることになる。

たしかに、悪いことであることはたしかであるにしても、絶対悪であるとは言え

ないような事柄に対してこの語を拡大使用することは、単にそれに強く反対する

人々が、「ホロコースト」という(誰がみても)絶対的に悪であるものを持ち出して

「自分はそれに絶対反対だ」ということを声高に言うという、扇情的な効果以上の

なんら生産的なものをもたらさない(論敵に対して「お前は殺人者と同じ」だと非難

して議論を不可能にするだけ)ので、好ましいことではないように思う。


しかし、ナチスドイツによるそれ以外の歴史的大量殺戮にこの語を用いることも

不適当だと言えるのだろうか?


もちろん、実際にホロコーストを体験したサバイバーたちや、永遠に拭うことの

出来ない民族的記憶としてそれに向き合わざるを得ないユダヤ人たちが、

こうした「ホロコースト」という語の一般化や安売り(?)に抵抗する、という

気持ちはわかる。


しかし、一方で、

もし、ナチスドイツによるユダヤ人その他の大量殺戮という意味での「ホロコースト」

が、単に唯一的、一回的なもの(人間によって行われた、あるいは今後行われる

かもしれない他のおぞましい殺戮とは比較を絶したもの)なのであれば、私たちは

その歴史からなんら教訓を得ることはできない、ということもまた確かなのではない

だろうか。

この問題に対しては、今のところ、私は次のように考えている。

ある出来事を体験した人にとってのその出来事の一回性・唯一性というのは、

何もホロコーストのような事態に限られたわけではない。

たとえば、ある人の「病いの体験」のようなものを考えてみた場合、第三者から

見ればその人の体験は、「ガン患者の体験」という一般的な概念に包摂される

かもしれないが、その人自身にとっては、時としてそういう形で包摂されることを

拒みたくなるような唯一性、一回性をもったものであるに違いないからだ。

しかし、

ホロコーストに関して言えば、それが「概念化・一般化」を拒むように

見えるところは、この種の「それを体験した人にとっての唯一性・一回性」という

だけではない。

つまり、それが私たちにとって「まるで理解しがたい、想像の範囲をはるかに超えて

いる」という性格そのものが、そうした概念化や一般化を拒んでいるように感じられる

のである。


よく私は講義などで話すのだが、

「非人間的」という語がある。これは考えてみれば不思議な言葉だ。。。

人間がすることは、そもそもどんなひどいことであっても「人間的」であるに

違いないからだ(犬が「非イヌ的」に行動することはあるのだろうか?)


にもかかわらず、私たちはこの「非人間的」という言葉が何を意味するかについて

経験的にわかっている(ように見える)。


とは言え、私たちが思い浮かべることのできるような「非人間的」な事柄のほとんどは、

やはりそれも人間がすることだ、人間性の中には「非人間的な」ことをする能力(?)

も含まれているのだ、と理性的に(?)納得できるような内容のものと言える。


そういう意味では、「ホロコースト」と形容されるような(必ずしもナチスによるそれ

だけには限らない)大量虐殺は、

何か、そういう次元をもっと絶したような、

およそ「人間」がすることとはどうしても想像不可能なような

ものとしか言えない、という点で、その概念化や一般化(人間理性の枠内で「これは

このようなものだ」と特徴づけること)を拒んでしまうところに、まさにその特徴がある

ようななにものか、だと言うことができるのではないか。


たとえば、個人による大量殺人のようなものであれば、いかにそれが「非人間的」な

所業であろうとも、私たちは、殺人者を「異常な人間」だとか「狂った人間」だとかいう

風にカテゴライズして、「少なくとも自分はそういう人間ではない」というように、

対象との距離をとることができる。

(もちろん「常に」「誰でも」そうできるとは限らないが)


ところが、(ナチスその他)「ホロコースト」と呼ばれうるような大量殺戮の場合、

その事実を知れば知るほど、こういうように「自分はこんなおぞましいことをする

殺人者とは違った存在だ」と自分をそこから引き離すことがほとんど不可能である

ということに私たちは気づく。


それは、いかにそれが私たちの思い描く「人間性」からかけ離れているように見えようとも、

けっして異常な一握りの人間がやった犯罪なのではなく、

私たちや私たちの隣人と同じような人間が、

(『人間の価値』というナチスドイツの医師たちの人体実験のありさまを描いた本のなかで

使われていた言葉を借りると)

その不気味な日常性のなかで起こしたことである、ということを認めざるを得ない

からである。


おそらく、普通の意味で「歴史から学ぶ」などということはそこでは不可能なのだろう。


にもかかわらず、そこには私たちが絶対に学ばねばならないものがある。


というか、そこから私たちが何を学ぶべきなのかを常に自らに問いかけ続けることを

強制するものがある。

ということだけはたしかなことだろう。