今日は少し真面目な話。
いくつ歳を重ねても思うことがある。
無力だなぁと。
世界をかけるような話でもない。
宇宙に星を作るような話でもない。
ただただ、人の気持ちをわかりたい。
ただただ、幸せにしたい。
と思っているのに、
そんなことも感じ取れない。
そんなこと、という表現が正しいかはわからないが、
その力の無さに苛立ちを覚える。
無力だと。
大事な人の気持ちを理解し、
そのことを実行に移すこと。
それなのに自分の感覚を常に優先してしまっている時の自分がすごく嫌いだ。
人は人であり一緒ではない。
他人は他人なのだ。
どんな人間も感性が違う。
それはいいことだと思う。
だが、
それに対しての自分の理解の低さに驚かされる。
何もわかっちゃいないじゃないかと。
思いがすれ違うたび思うのだ。
思いという漢字は
田に心と書く。
田に稲を植え付けながら
広い平地で作業をしてても、ふとしたときに頭に浮かんでしまうような大切な気持ちなどを「思」というのではないかと読み解いている。
些細なことでもあり、大切なことのようなものを
思いというじゃないかと。
「そんなこと考えても仕方ない。
人の気持ちを読み取れる人などいない。
人は人だから分からないのが当然」
大半そういうだろう。
でもどうしても読み解きたいと思ってしまうのが自分だ。
大切に思えばこそ。
わからないからいいこともきっとあるのだろう。
でも、自分はわかった上で行動したい。
その人のことを考えたい!と深く深く思う。
その思いを知って辛さがあるとしても、それに耐えれる自分を作るほか、その人を幸せにする道などないのだ。
自分に何かできるかどうかは、知ってからで対応できるかも知れない。
知らねばなにも行動すらできない。
そんな気持ちでとめておくほど自分はお淑やかではない。
感じ取れ。考えろ。この人のことを
読み取れ、異変はないか。
何かをするには何か理由ある。と思い巡らさねばならないと思っている。
また人は言うだろう
「人ばかり見てないで自分に生きろ」と
たしかに、自分の人生だ。
されど生きることを教えてくれたのは周りの人達なのだ。
いい人生とは周りを幸せにしてこそではないのか。
実際、今まで生きてきて本当に幸せだと思っている。
自分らしく楽しんで生きていると思えている。
だが、
いつもそこが引っかかる。
培ったものを、培うことを支えてくれた人達に返さないで、なにがいい人生なのだろう。
今回、深々と殴り書きのように書いてしまっていること、謝罪します。
だが思っていることは
やはり伝えたいと思う。
自分は、後悔は死の時だけで十分だと思っている。
死ぬとき後悔しない人間などいないと考えるからだ。
その時にたくさん後悔するんだから生きてるうちこそ後悔から無縁に生きたい!そう思っている。
私がこれだけ珍しくいうのも
、たぶんだが
私は自分の名前に恥じぬ生き方を求めているのかも知れない。
他の人の
どんな気持ちもどんな思いも、
同じ感性で感覚で感じることはできない。
でも僕はただ、
寄り添い
一緒になって悩んで
たどり着くところが辛くても
1人ではないと、独りではないのだと
少しでも思えるように
カウンター1枚挟んでても
そんな思いを察し、寄り添いたいと。
まるで
夜空のように。
常に覆いつくす宇宙のように。
見上げれば近くにいてくれた。
そんな存在になりたいんだと思うんです。
この人のために
《何もできない》ではなく。
《何かできないかな》をもっと。
これは佐藤宇宙としての気持ちと
サービスマンとしての気持ち
どちらとしても思っていること。
少しずつでも
強く大きく
無力ではない自分に。
そんな気持ちに黄昏ながら、
夜空を見上げ
ソラを仰いでいる。
