私は肉が食べられない。

正確に言えば食べられる肉と食べられない肉がある。

 

非遺伝子組み換えや無農薬の飼料、ストレスフリー(放し飼い)で育てられた肉は食べられるが(それでも少しだけど)、

抗生剤をバンバン打たれて牛舎や豚舎で育った肉は食べられない。

頑張れば食べられないこともないけど、

食べたら体に負担が掛かって酷い時は動けなくなるから、

出来るだけ食べたくない。

だから基本的に肉を食べない。

 

普通の人にこの説明をしても面倒くさいと思われるか、

我が侭だと思われるかのどちらかなので、

職場の人には肉が食べられないことと、

理由を聞かれても体質的に合わないと言う事だけ話している。

 

少し前に職場の歓送迎会があった。

肉料理が出たので食べられないからパスしたら、

先輩の一人が食べられないことを「可哀想」と言ってきた。

その一言に少しカチンときて、

「『食べたいけど食べられない』なら可哀想かもしれないけど、私は元々肉が好きじゃないし、食べられなくて困っていないので」

と言うと、彼女はしどろもどろになった。

 

『食べられない=可哀想』という発想が、私にはどうも理解できない。

「食べたいけど食べられない」と一度でも言ったのならそう思うのもわかるけど。

 

例えば「ピーマンが嫌い」だと言ってる人に、食べられないのが可哀想と思うだろうか。

 

嫌いなのか、アレルギーなのか、私みたいな理由なのか、

食べられないにも色んな理由があると思うのだけど、

それを『食べられない=可哀想』という発想はなんだか短絡的に思える。

 

 

電話が鳴った。母からだった。

「探し物をして欲しい」

 

結果的に探し物は見つからなかったが、

代わりに別の物を見つけた。

亡くなった祖母からの手紙だ。

 

祖母は私が小学3年生の時に亡くなっている。

顔は写真で見て知っているが、

声も過ごした日々も、私は何も憶えていない。

 

別に祖母と過ごしたことが無いわけではない。

話したことも一緒に過ごしたこともある。

でも祖母との思い出は何も憶えていないのだ。

この件に関わらず、私には小さい頃の記憶があまりない。

祖母との事もその中の一つである。

 

手紙に何が書いてあったわけではない。

「お母さんの作ったご飯をちゃんと食べるんだよ」

「おばあちゃんも学校行事に行きたかった」(祖母は入院中だった)

「お手紙ありがとう」

そんなありきたりなことだ。

でもその手紙を読んで、なんだか涙が出た。

 

祖母との出来事を何も覚えていないのがなんだか申し訳なくて、

ずっと罪悪感のようなものを抱いていた。

だけど手紙を読んで、そんな風に思う必要はないのだと思った。