息子が亡くなって5か月になる。




わたしは日常を過ごす。

仕事もある。

息子と同じ歳くらいの同僚も多い。

やりたいことを求め、

40歳を過ぎて今のところに同種転職した。

新しいことを学ぶのは楽しい。

それらを自分のものにしていくには

なかなか手強い。

瞬発力もなくなってきたと感じる。



主人は精神薬を飲み始めて

穏やかになった。

夜眠れない、とは言うが

焦燥感は減っているように見える。

食事もする。

仕事もする。

コロナ禍以降も、

在宅ワークが中心の生活だ。






わたしたちに、

会話は、

ほとんどない。






息子の死に際。


主人はお酒に酔っていた。

死ぬなんて思ってなかったのか。

そんなことはない。

わたしは主人に伝えた。

父の最期に似ている。

死んじゃうかもしれない、と。

息子はおかしな言動と正気な言動が入り混じり、

よく喋っていた。

手もかかる状況だった。

なのに、

手伝いで呼んだ主人はとても酔っていた。

腹が立った。

苦しくて苦しくて、

眠れなくて、

がんばっている息子がいるのに、

お酒を飲んでる。

手伝いが出来ないほどに飲んでいた。


ありえない。





その日、

息子は死んだ。





そしてその日、

主人は、

駆けつけた親族や近所の方に、

息子のことを饒舌に、

いろいろ大変だった、

と話して聞かせる。

息子のことを

ほとんどなにもしていないのに。 



 

月日が過ぎる毎に、

主人への怒りや嫌悪感は、

大きくなっていった。


完全に怒りに取り憑かれた。


怒りは大きな負のエネルギーとなった。


主人が眠れないと言っても

その気持ちに寄り添うことが出来ない。

怒りが湧いてしまう。




怒りを鎮められない。

怒りでいつも心は毛羽立っている。

嫌悪感のかたまり。

買い物もひとりで行くようになった。

休みの日のランチもひとりがラク。

一緒にいる意味はなんだろう。



仕事もある。

経済力の心配はない。



離婚を考えた。





離婚のほかに、

怒りを鎮められる方法はあるのだろうか。





離婚を選択して、

わたしは

何を求めているのだろう。



自分の心の安寧。



結局、自分。

自分のため、か。



自分じぶん、が大きくなって、

相手を許すことができなくなって、

怒りの塊が、自分を苦しめる。




わたしは、

自分の持つ思考に捕らわれて生きている。





息子が亡くなって5か月。

そのことに、

ようやく、気づく。




生きていることに意味はないのだと思う。

意味をつけて、

それにすがって生きたいと

思っているだけなのだと思う。



いまのわたしに、

離婚の意味はないのだと思う。