息子が亡くなってから、花を欠かさず置くようになった。花があることで気持ちの向きが少し変わるように感じている。花を贈る意味の大きさにいまさらながら気が付く。





わたしには息子が2人いる。



先月亡くなった息子と今大学生の息子のふたりだ。

性格のちがう2人。年は3つ離れている。2人とも男の子にしては穏やかな性格だと思う。2人がケンカをしていた記憶はない。小さい頃から言い合いや叩き合いはしなかった。



ここ1〜2年は、特に仲が良かった。夕飯時に2人で数時間しゃべり通すこともよくあった。わたしは息子らの会話する様子を見ているのが大好きだった。




9月に息子が亡くなってから、わたしも主人も、もう1人の息子も、あまり息子の話を出来ずにいる。なぜだろう。いないのはわかっている。でもそのことには触れずに時を過ごしている。




息子は自宅で亡くなった。本人がそう望んだ。

看取りはとてもとても辛いものだった。




大学生の息子や主人が、亡くなった息子の話をせずにいるのは、最期の日、あんな半狂乱なわたしを見たせいかもしれない。と、思っている。



わたし自身も、あの日を思い出さないようにしている。もうすぐ四十九日になる。でも、まだ、最期の日のことには蓋をしている。




でも、毎日生きるのが辛いとか、喪失感しかない毎日、というわけではない。淡々と、ふつうに、生活している。TVも見るし、家事もする。仕事もするし、本も読む。Netflixも見るし、猫の世話もする。ふつうに、ふつうの毎日を過ごしている。




そんな毎日。





今日の夕飯時、大学生の息子が亡くなった息子の話をしてきた。



「アイカーリーの曲、こないだ見つけたんだ、テレビでやってたやつの曲。◯◯(亡くなった息子の名前)に言おうと思ったら、もう◯◯いないからさー。明るくて、よし行くぞって気になる曲でさー。◯◯に言ったら、ぜったい、なつかしー!!って言うよ。でも、いないからさー。教えたかったなー」



こんなにストレートに亡くなった息子のことを話してきたのは初めてだった。





少しほっとした。





わたしに遠慮して、亡くなった息子の話が出来ないないのはいやだと思っていた。

それに、亡くなった息子のことを話せるということは、気持ちに変化があってのことかなとも思う。