息子が咳止め薬の内服を始めて1週間。


咳が治る気配はない。むしろ、目立ってきたように感じる。横になり眠っている時にはそんなに咳をしない印象。苦しいことはないという。


心のどこかで、

風邪の咳かも、と思っていた。思いたかった。


でも、違う。

そうではない、と実感している。



息子の口数が減ったように感じる。

咳が出るのが嫌で話さないのか。

多発肺転移、余命宣告とはいえ、今まで何の症状もなかったのに症状が出てきてしまっての恐怖か。


息子は、どんな気持ちの毎日なのだろう。     



息子は、小学生の頃からガンダムが好きだ。小3の最初の癌治療のときにも、抗がん剤の点滴をしながらガンプラを作っていた。病院の近くに「Tam Tam」があったのがラッキーだった。息子の欲しいガンダムを買い求め、通い詰めた思い出がある。息子がガンダムを作るスピードはなかなかの速さで、次々に作り終えていた。


来年2月に「機動戦士ガンダムSEED」の映画が上映されるという。


「2月かぁ、おれ微妙だよなぁ。見たいなぁ。」


息子は5月下旬、1年はもたないだろう、と言われた。命の時間なんて誰にもわからない。それはわかっている。でも、21歳の息子が、今のわたしの年齢である40代を迎えることはないのだろう。そう遠くないところに、命の時間が差し迫ってきているのだろう。




「やっと死ねる。もう病気はいやだ」

「おれ、死ぬのはいいんだ。

  ただ、苦しいとか痛いとかはなぁ」


息子が余命宣告を受けたとき、そう言っていた。

息子は多くの時間を癌治療に費やしてきた。我慢の多い時間を過ごしてきたと思う。



本心はどこなのか。



みんな死にたくないに決まってる、という人もいる。だけど、6回癌になった息子は、その”みんな”には当てはまらないように思う。”みんな”が経験したことのないことばかりを経験してきた息子。わたし自身は、息子には敵わないと思っている。わたしよりずっと多くの経験をし、多くの思考を巡らせ、多くの忍耐を持って日常を過ごした。


余命宣告だって、外来診察に同伴していたわたしと主人に「2人がいると聞きづらいから」と診察室の外に出るよう言い、自分ひとりで整形外科の主治医から話を聞いたのだ。何を話したのか気になったけれど、わざわざわたし達に聞かれない環境を作った息子の気持ちを思うと、聞き出せなかった。

わたしは、息子との会話で余命宣告を受けたことを知ったのだ。



誰れかに当たるわけでもない。

淡々としている。



生きることを諦めているのではない。

決して投げやりなんかじゃない。


わたしは、

安らかに、最期を迎えられるよう、手を尽くそうと思っている。



息子の気持ちを慮る。

わたしが伝えたいことを息子に伝える言葉が見つからなかったり、自分の伝えたいことすら、わからなくなっている。

死ぬことを前提とした言葉を選びたくない。

わたしは、息子と何を話したいのだろう。



言葉にはその人の思考が入るという。