私の好きな作品の一つは「アメリカンサイコ」である。両作品とも主人公は孤独な存在であり、そして最後まで自分の心中を理解してくれる人間は現れないまま物語は幕を閉じる。パトリックは自身が異常であることを自覚しているうえで、周囲に合わせ社会に溶け込み健常者を演じるのに必死といういわゆる映画に登場するシリアルキラーにしては、どこか滑稽で憎めないキャラをしている。彼は一見するとエリート街道まっしぐらのハンサムな証券マンであるがその実、周囲の同僚たちと同様に周りからどう見られるかばかりを気にして、外観のみいいように取り繕う。彼が同僚たちとつるみ大して中身もないのにいかにも意識が高いように見える会話しているシーンなんか、大学で自分たちをイケてる集団だと勘違いしてやれ授業がだるいだの、昨日朝まで飲んでて二日酔いだの、パチンコでいくら勝っただのとしょうもない会話を延々と垂れ流す中身が空っぽなイタイ大学生のようである。さて話がずれてしまったが、そんな外面ばかり気にした結果、映画に出てくるパトリックと同僚たちは皆同じブランドのスーツに、同じブランドの時計、髪型など皆似たり寄ったりの外見となっている。ポールアレン含め登場人物の何人かは自分のことばかり気にして周りが見えていないのか、或いは皆同じような見た目のせいなのか誰が誰なのかの区別すらついていない。自己という個性の消失と他者への無関心、そんな空虚さがパトリックを殺人衝動へ駆り立てるのかもしれない。人前に出るときのパトリックは、早い話演じているのだ、健常者を。そして人を殺す時だけ本当の自分へとなることができる。しかしパトリックは言ってみれば完全な異常者となることができない中途半端に常識を持った殺人鬼である。ハンニバルのように自身の犯行を悪びれることなく、一種の哲学や美学を持ち合わせるある種異常者の完成形ではなく、自身の犯行に限界があることを感じ最後にはすべてを打ち明け罰せられることを望む。しかし結局、パトリックが罪の告白をしても誰も真に受けず、挙句には利益のためにパトリックの犯行を隠蔽する。それがこの物語における社会なのだ。物語の最後で、パトリックはそんな社会に対し、理解を求めることを諦め欲望のままに生きることを決意する。最後まで理解者など現れないのだ。ここまで言って何が言いたいのかというと、これは現代社会にも当てはまるのではないかということである。皆本質的には、自分と関係がない周りなどどうでもいいのである。誰かがどれだけ苦しんでいようが、自分と何のかかわりもなければどうだっていい。そんなごく普通のあたりまえのこと。しかしながらその当たり前が時としてあまりにも残酷で冷たくてつらいと感じる。今人生に絶望しどん底に立たされている人がいる一方で、幸せの絶頂にある者もいる。今日を生きるのに必死なものがいれば何年も暇を持て余しいたずらに日々を過ごすだけのものもいる。どんなに不公平で不平等でも結局のところそれが社会なのである。異常なものも正常なものもすべてひっくるめて社会。勝ち組も負け組もいるのが社会。私は、今まで人生を生きてきて自分が負け組であることを自覚しまたパトリックのように中途半端に常識があるせいでそんな社会に縛られて生きてきた。誰もが思うだろう。完全に気が狂えたらどれだけ楽になれるか。自分の気持ちを理解してくれるものが一人でもいればどれだけ幸福であろうか。しかし結局のとこ、私は持たざる者そう負け組である。誰も私の孤独に寄り添ってはくれないだろうし、理解してくれないだろう。だから私はそんな孤独を抱える彼が好きなのである。