こんにちは。MIZUNOMです。

 

この記事では、放置系ブラック研究室の怖さ、辛さについて書いていきたいと思います。

 

まず初めにここまで記事を読んでいただいた方の中には、「せっかく研究室に受け入れてもらったのに文句を言うのか」とか、「これはただ環境のせいにしている甘えなのではないのか」とお思いになられるかもしれません。ごもっともだと思います。僕自身、いまでもそう思います。

 

しかし、人間だれしも完璧ではなく、常に最良の選択を、最大限の努力を出来るものではないと思います。そしてこれは、別に「研究室がブラックだった!全部研究室が悪いんだ!」という恨み言を書きたいわけではなく、「僕はこうしてました。こんな思いでした。あなたは一人じゃない」と、同じ境遇で苦しんでいるひとを少しでも勇気づけ、「なんだ俺みたいなばかやってる奴はこんなにいるんだ。俺も頑張ろう。」と思ってもらいたいから書くのです。

 

僕がブログを始める動機の一つともなった「放置系ブラック研究室で楽しく生きるにあたってー糞ネット弁慶ー」(http://d.hatena.ne.jp/repose/20110204/1296803747)の著者様のお言葉をお借りするなら、

 

”これらのデメリットは全て「努力が足りない」「要は勇気がないんでしょ?」「自己責任」「ゆとり教育乙.大学院とは自ら学ぶ場所であり云々」などのワードで片付ける事も可能だが,しかし,それらの言葉は言った側が満足するために存在するのであり,言われた側は何も解決しない.”

 

ということです。わかっちゃいるけど、それだけでは前に進めない。そんな人のために僕はこのブログを書きたい。そして暇なので(笑)

 

話を戻します。

4月。無事に大学院入試に合格し、大学院を変えた私は引っ越しも済ませ、意気揚々と研究室の教授のもとを訪れました。理由は今後の研究内容について、話し合うためです。

 

研究テーマの提示を待つ私に、教授はこう言いました。

 

「もういい年ですから、自分で考えるといいですよ。アフリカで去年研究したならそれもいい。しかし研究費は出ないので、自分で奨学金申請するなりバイトするなりしなさい。」

 

え?あ、はい。ってなりました(笑) いや、確かにもう20そこそこなんだし、研究テーマは自分で考えるもの……どうすればいいの?(・ω・)?

 

呆然としながら帰宅したのを今でもはっきり覚えています。前にも書きましたが、僕は発展途上国で働くための勉強がしたかった。経済系を選んだのもそのため。

その研究室は海外での研究が主で留学生も多かった。愚かな僕は、そこでなら国際協力や発展途上国というテーマで教授から何か題材を与えてもらえるものだと思っていた。

 

テーマもない。科研費もない。人脈もない。僕はここで初めて自分の浅はかな考えに気が付きました。結局、他人から与えてもらおうとするだけで、自分からは何もしようとしてなかった。

でもこれって、普通の大学生ならそんなものではないかと、今は思います。国外を研究テーマにする学生(特に理系)は普通、科研費ありきでテーマも選ぶ(と、思う)。

 

しかし、当時の私は激しく自己嫌悪しました。そして次の日から、おそらく人生で最も辛い日日々が始まりました。

 

翌日から私はまず必死で留学プログラムや奨学金を探し始めました。テーマなんて言われても、去年やったアフリカについてしか思いつかない。かといってそんなところまで行って、長期滞在するような金もなければツテもない。まずは足掛かりとなる資金源とコネクションを探すしかありませんでした。

しかしもう4月。普通奨学金や研究費なんてものはその前の年から申請するものです(それもこの時知った)。ほとんどの奨学金や留学プログラムはもう募集が締め切られていました。

残っていたのは中南米への留学か、ごくわずかなアフリカ研究に使える奨学金。

 

数日悩んだ末、アフリカに何のツテもない僕は、資金も出て、カウンターパートの大学の受け入れ態勢もある中南米のプログラムを選ぼうと決めました。

 

僕は震える手で留学申し込み用紙を書きました。申し込みの審査機関まで、僕は留学先の国で何か面白いテーマがないか調べ始めました。

しかしそんなもの修士の学生が急に調べ始めても、良いテーマが急に見つかるわけもなく、理系の実験系から経済系に移った素人の僕はあてどもなく、論文を探しているだけでした。もちろん教授からは何も教えてもらえません。「全て自分でやることこそが修士の勉強」であり、その過程にこそ意味があると先生はおっしゃいました(これに異論はありません)。

 

なんとなく面白そうなテーマを形だけでも引っ張てきて論文を読み始めるものの、心がざわついて全く頭に入ってきませんでした。

「何のためにこの大学に来たのか」、「教授の指導も得られないなら、去年居た研究室でも変わらない」といった心の声が繰り返されました。

 

研究室には同期が3人いました。しかし、籍だけは僕と同じ研究室であるものの、全員実験系研究室に実質所属しており、科研費もそこからもらって、研究するということでした。当然指導もその研究室から受けていました。

 

誰もいない研究室で、僕はひたすら論文を探しては読みました。留学生もいるはずですが、コアタイムがないため、僕を除いてみんな家で作業をしている(あるいはしていない)ので、研究室は常に無音でした。教授も学生部屋に足を運ぶことはありません。というか大学にほとんどいません。孤独な毎日が続きました。前の研究室のように多忙でなくなったことを喜ぶ余裕は微塵もありませんでした。

 

友達と話す機会が無くなったことがさらに孤独感に拍車をかけました。朝も昼飯も帰りも一人。研究室と家を無言で往復する毎日。

 

相談する先輩もいません。自分の選んだ論文が分野の中でどういった位置づけなのか、どういったテーマが話題なのか、何一つわかりませんでした。霧の中をあてどもなくさまよう感覚でした。

 

ゼミでは実験系の同期が研究室の指導の下、去年から入念に準備された研究計画を発表し、一方僕はとりあえず去年の卒論の内容を発表して終わりました。話を聞けば、卒論の内容は論文に投稿する予定で、原稿をかいているとか。ただただ単純な実験・測定を繰り返すしかなかった自分の研究内容に比べて、それはとても素晴らしい研究に”見えた”。

 

周りの同期の話を聞けば聞くほど、焦りは増し、自己嫌悪しました。

いつしか食欲は激減し、夜少し口にするだけになっていました。大学に行っても、頭は回らなくなり、二時間ほど机の前に座って論文を読もうとして、耐えきれず、家に帰って自己嫌悪に陥りながらも、ゲームをして気を紛らわせました。

そのうちゲームすらやる気がしなくなりました。大学に行き、なんとか授業だけ出席し、逃げるように家に帰ってうずくまりました。胸が苦しくて、遠くから聞こえる学校のチャイムが怖かったのを覚えています。

周りが着々と研究を進める中、自分は何も進んでいない。学費や引っ越し代をどぶに捨てている気がして、自分がとんでもない罪を犯しているような感覚に取りつかれました。

 

もう限界だと思った僕は、気が付くと母親の連絡先を携帯で見ていました。30分くらい迷った挙句、僕は母に電話しました。

 

「あ、母さん。いや、特に用はないんやけど……」

 

母は僕の声音から異常な状態に陥っているのを感じ取り、どうかしたのかと聞いてきました。僕はこれまでの経緯と今の気持ちを初めて他人に吐露しました。母はすぐに「それはうつ病だ、大学を休学しなさい」と言いました。

 

僕は「休学!?そんなこと出来るはずない」と始めは戸惑いましたが、無意識に涙が流れ出しているのに気が付き、休学を決意しました。

 

そこから母の行動は早く翌日には僕の下宿先まで飛んできて、当面の服など持って僕を連れ帰りました。

 

僕は実家から大学の先生方に休学の旨を伝えました。先生方は僕の急な知らせに驚き、戸惑っている感じでした。しかし、何人かの先生はいつでも戻ってきたらいい、今はゆっくり休むといいと言ってくださいました。

 

僕は三週間ほど家でゆっくり寝て過ごしました。休学すると決意すると不思議と心が軽くなりました。就職に対する不安は付きまといましたが、以前の状態に戻る勇気はありませんでした。

 

寝て過ごしているうちに全てがどうでもよくなりました。研究内容や実績、能力に対する執着心はなくなりました。そして逆に、「ここで休学するくらいなら、二年で修士出て、働いたほうが楽だし金になる。研究なんて適当にやって出てやろう」という意気込みが湧いてきました。

 

そこから僕は大学の教授に休学の取りやめと、復帰を連絡し、翌週大学に戻りました。ゴールデンウィークと大学を休んでいた期間が重なったおかげで、何とかギリギリ単位は落とさずに済みました(笑)

 

大学に戻った僕は、大学の事務室に頭を下げて、留学の申し込みを辞退し、自分が本当にやりたかったこと、”アフリカ、タンザニアで研究すること”を決意し、動き始めました。

 

ここで一旦切ります。

ここまで結局アフリカでの研究というより、うつ病(臨床学的にはうつ病ではない。一応。)になった大学院生の話ばっかりですね。すみません(笑)

 

次回から、「一介の大学院生がアフリカで研究するためにやったこと」を書いていきたいと思います。