最近、ごろごろだらだらしまくることに罪悪感を感じなくなってきた。
いいことだと思う。
すばらしい進歩だ!
昨日もたっぷりごろごろしておりました。
ブログを書いたあと
「○○(ダンナ)は買い物いかないよね?」
って聞いたら
「うん、いかない!」
って明るくきっぱり言われたので、なんか悲しくなってしまい、
「そんな明るく言われるとかなしい~」
とベッドにもぐりこみました。
そのまま寝て、夜ごはんを食べがてらショッピングセンターに一緒にいってもらいました。
ダンナさんの宿題が大変なのは知ってるから、お店はちらっとみただけで早く帰りましたが、やっぱり少しくらい一緒に出かけたかったからよかったです
夜は洗濯したり、お風呂掃除したり、お母さんと電話したり、編み物したりしてました。
ダンナさんが2時くらいまで起きてたから、私もベッドの中で眠らずに起きてました
全然眠気がなかったからソラナックスを飲んで眠りました。
今朝は8時に起きて、またごろごろして、昼過ぎに洗濯とゴミ出しして、お昼ごはんを作って、パソコンや編み物してます。
昨日の電話で、お母さんがお正月は元旦から4日まで仕事だと話していたながれで、
「前の仕事の時も元旦は休みだったけどあとは仕事だったよね。あの頃は、△(妹)は子供でおばあちゃんちに行ってたし、あんたは中学生で勉強してたからそんなにさみしくなかったかなぁ?」
と昔の話になりました。
私はさみしいなんて思った記憶がないし、お母さんが私たちがさみしい思いしてないか気にしてたことに驚きました。
「勉強してたから別にさみしくなかったんじゃない」
って答えたけど、本当は自分がどう思っていたか、やっぱり思い出せない。
ダンナにその話をしたら
「状況を考えたら、本当はさみしかったんじゃない?でも勉強して立派にならなきゃっていう使命感が強くてかき消されてたのかな」
というようなことを言っていました。
離婚する前、お母さんは専業主婦だったので、当然お正月は家にいて、みんなでおせちを食べたり、お年玉でおもちゃを買いにいったりしてました。
そんなお正月が普通だったのに、だれもいないボロい借家で、勉強してたんだろうか。
おばあちゃんちにいってたのかな。
中学2年、3年。
当時は自分はもう大人のつもりだったけど、今そのへんで中学生を見ると、間違いなく子供だと思う。
なんか、さみしいって感じることも忘れてた中学生の自分を思うと痛々しくて泣きそうになる
私「私ね、○○(ダンナ)がいなかったりするとさみしいって思うし、もっと一緒にいてほしいって思うんだけど、子供のころお母さんがいなくてさみしいとかもっと一緒にいたいとか思ったことがない気がする」
ダンナ「あきらめてたんだね」
私「うん、でも、うつ病になってからもっと一緒にいてほしいって思えたの。だけど、そう思ってもかなわないから、苦しくなって引っ越したよね」
ダンナ「そうだったね。いろいろ試してきたよね」
私は、いつまでも過去のことにこだわりたいわけじゃないし、「私は不幸でした」ってアピールしたいわけでもない。
ただ、今を生きて、前に進みたい。
そのためには、さみしさや辛さを、無意識にすべて封印していた中学時代のことを振り返る必要があるんだと思う。
もし、これがドラマで、テレビの中で中学時代の自分を見ていたら、「辛いだろうな、さみしいんだろうな」と想像すると思う。
そういう客観的にみて感じるはずの感情をまったく感じないというのは、あんまり健康的じゃないのかもしれない。
喪失体験をしたら、十分に悲しむ時期を通らないと、次の段階にすすめない。
うまく悲しめないまま、通り過ぎてしまうと、どこかでうつになったりする。
そう本で読んだとおり、私はうまく悲しめなかったから、めぐりめぐってうつ病になってしまった可能性がある。
昨日、一生懸命勉強してるダンナを見て思った。
私もカウンセリングがんばってよくなろう。
今の私が一番すべきことは、家事でも仕事でもない。
うつ病を治す、もしくはできる限り安定させること。
もちろん、のんびりゆーったり、あせらずに、何年もかけて。