大学2回生の時、日常の会話を分析するという授業がありました。
6月のある日のコマは、その準備ために、学生同士が会話をしてテープに録音することになっていました。
でも、その日は大阪にライブを観に行く予定だったので、私はそのコマは欠席しました。

結果的に、私の選択は正しかったです。
次の授業の時、テープの会話の書き起こしを見て、私は恐怖に襲われました。
学生同士の会話は、子供時代の思い出から始まって、間もなく教員の暴力(俗にいう体罰)の話へと話題が移って行ったのです。
もし、出席していたら、私は教室から走って逃げるか、教室から泣いて走って逃げるかのどちらかだったでしょう。

私は会話に参加しなかったので、代わりにラジオの音楽番組の書き起こしを提出しました。
こちらの方が、はるかに良かったです。


海外アーティストの来日公演は、基本的に東京や大阪でしか行いません。
地元は田舎で東京や大阪から遠かったので、コンサートに行くことが出来ませんでした。
大学進学で関西に引っ越して、「これで海外バンドのライブに行ける」と、とても嬉しかったのを覚えています。

自宅でCDを聞くのも、楽しいです。
でも、ライブでは音楽をもっと楽しめるのだと期待していました。
ライブでは音楽がもたらす絶頂と熱狂と陶酔を味わえるのだと考えていました。

大学時代は、単独公演に4回、フェスに1回、足を運びました。
実際のライブは思っていたのとは違っていました。
前の方にいると、横と後ろの人の歌い声しか聞こえませんでした。
前の人の頭で、バンドはほとんど見えませんでした。
人ごみから外れるために後ろの方に行くと、やはり音はよく聞こえませんでした。
バンドは財布ぐらいの大きさでしか見えませんでした。

音楽は楽しめませんでした。
ただ、「いつも憧れているバンドと同じ建物の中にいるんだ(よく見えないけど)」と胸が温かくなりました。
また、大阪にコンサートに行くこと自体が、「都会ライフを満喫してるんだ」と洗練された高揚感をもたらしてくれました。
帰りは大阪の夜景を楽しむというオマケもついていました。
(乱文です。)

学校の教員(とか親とか施設の職員)は社会全体から見ると取るに足らない存在であるが、学校(とか家庭とか施設)という閉ざされた空間では絶対の権力を持っている。
社会全体のピラミッドでは中ほどでも、「教室」という小さな閉ざされたピラミッド内ではトップに位置する。

だから暴力を揮う。そして誰も止めない。

生徒は成績評価を握られているから、教員には逆らえない。
子供は本能的に(親が好きだからではない)、親をかばう。
施設に入る人は、もともと体が不自由だったりするから、逆らう力が弱い。

暴力教師も学校の外に出ればおとなしくなる。
暴力教師も学校から出れば、社会全体では中ほどのレベルなのである。
狡猾というよりも、分をわきまえているのだろう。
だから近所の人は、暴力教師が学校の中で悪事の限りを尽くしていることに気付かない。

あるいは、近所の人は教員(とか親とか施設の職員)が生徒(とか子供とか体の弱い人)を管理することを望んでいる。
中学生に部活をさせるのは、彼らの成長を願ってのことではない。
彼らを部活で雁字搦めにして、プライベートの時間と体力を奪うのは、非行対策である。
つまり、部活で時間をうばって、疲れさせて、近所で問題を起こさないようにするためである。

近所の人々は、生徒を学校に閉じ込めておきたいのだ。
生徒が学校問題で苦しもうが関係ない。
生徒が放課後に近所をうろつきさえしないならば、生徒が病気になろうが自殺しようが構わない。

私は若いころ、つくづく「歓迎されていない」と思った。