す□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(51)

(「水中花・四十雀」より)


春曙林来る灯のひとつ見ゆ

季語は、「春暁(しゆんげう)」の傍題、「春曙(はるあけぼの)」で、三春。

春の夜明けの、東の空がしらみかける頃、林を通って近づいて来る灯りがひとつ見える、という景ですね。病気の進行が案じていた真冬が終って、春がやってきた、その喜びの象徴としての灯り。波郷の病状がややよい方向に向かっていることが分かります。

降る雪が踊る櫟を降りつつむ

季語は、「雪(ゆき)」で、三冬。

「踊る櫟」とは? 櫟はブナ科の落葉高木。雪が降っているこの時期、まだ櫟の木に葉はついておらず、ほぼ枯木のような状態でしょう。その枯木のような姿を「踊る」と形容したと考えるしかありません。もちろん春が近づくことによって櫟の木は新しい春の息吹を感じ取ってもいるので、その意味も込めて「踊る櫟」と言ったのだと思われます その櫟の木に春の雪が降り、櫟の木は雪を纏っているのです。

寒苺病を生くるまた愉し

季語は、「冬苺(ふゆいちご)」の傍題、「寒苺(かんいちご)」で、三冬。

「病を生くるまた愉し」の措辞が、波郷の心境の変化を表しています。入院生活は長期に渡り、死線をさまよったこともある波郷。そうした困難を乗り越えていくうちに、手に入れた境地がこの句に表現されています。やや調子のよいときに口にするもの、ここでは「寒苺」がそれにあたりますが、しっかりとその味を確かめることができるということ。そこに、生きることの愉しみを見出したのかもしれません。『惜命』時代の、あの切迫した生への強い願望から少し離れ、諦観の境地に入ったとも言えるでしょう。

  馬場移公子さん
雪は熄み言数行にして去にき


季語は、「雪(ゆき)」で、三冬。

馬場移公子(ばばいくこ、1918年12月15日‐1994年2月17日)さんは、埼玉県秩父出身の女流俳人。本名は新井マサ子。金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋櫻子に師事。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍しました。秩父のひそやかな暮しの中で独特の孤独感のある句を作ったと言われています。

藤咲くや水をゆたかにつかひ馴れ  馬場移公子
峡(かひ)の空せまきに馴れて星まつる
うぐひすや坂また坂に息みだれ
萩咲きぬ峡は蚕飼をくりかへし
夕づくや桑摘の背に泉鳴り
積み捨ての蚕籠にこぼれえごの花
倒るゝまで枯向日葵を立たせ置く
亡き兵の妻の名負ふも雁の頃
いなびかり生涯峡を出ず住むか
寒雲の燃え尽しては峡を出づ
麦秋の蝶ほどにわが行方なし



その馬場移公子さんが波郷の見舞いに来たようですが、馬場移公子さんはあまり多くを語ることはなく、雪がやむと早々に帰ってしまったようです。彼女もまた肺を病んでいたらしく、波郷に対して配慮の気持ちが働いたのでしょう。

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ありていに言へば眠たし梅雨あがる  森器

嬉々として初めて使ふ津田梅子荷物重しとけふは云ふまい


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5000円札の津田梅子を初めて見て、妙に嬉しくなりました。まだ、渋沢栄一と北里柴三郎にはお目にかかっていません。でも、それも時間の問題でしょう。

新札を発行する意味については、ちょっと疑問がない訳でもなかったのですが、こうして新しい顔ぶれを見ると新しい時代に入ったかのような気分にはなります。

ただ、文人がいないのがちょっと寂しいですね。夏目漱石とか、樋口一葉とか、とても良いと思いましたのに、消えていってしまいました。

次回の新札発行のときには、是非とも、詩人か、俳人か、歌人を新札の顔にしてもらいたい気がします。

個人的には、中原中也の1000円札。カッコイイと思うのですが。


拙作、拙文をお読みくださり、
ありがとうございました。