□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(40)

(「水中花・四十雀」より)

患者三人菊に術後の深睡り

季語は、「菊(きく)」で、三秋。

「菊」とありますが、すでに初冬に入っていて実質は冬菊と言ってよいかもしれません。

患者三人が手術後、菊の花が花瓶に咲いている部屋で、麻酔による深い眠りについている、という句意。


「菊に術後の深睡り」という言い方は、波郷らしい省略の技法が活かされているといってよいでしょう。麻酔ではなく、菊の香で眠っているみたいだ、という感じ方の素晴らしさ。

母の忌は入院三日目菊の数

季語は、「菊(きく)」で、三秋。

波郷のお母さまが亡くなったのは、1965年(昭和40年)11月11日。今回の入院日が、11月9日ですから、確かに入院三日目。そして、花瓶に挿された菊の花の数も三本だったということではないでしょうか? 

三本の菊の花を見ながら、波郷の良き理解者であった母の面影を思い起している波郷の悲し気な様子を思い浮かべることができます。

二の酉や枯木襖のむらさきに

季語は、「酉の市(とりのいち)」の傍題、「二の酉」で、初冬。

この句はよく分かりません。

「枯木襖」というものがあったのかどうか? あったとしたらどんな襖か? また下五の「むらさきに」とは何を指しているのか? (襖紙の色?)

そういったことが不明であるとともに、波郷がこの句で何が言いたかったのかは私には分かりません。

先に進みます。

気散じにちりし銀杏や酉の市

季語は、「酉の市(とりのいち)」で、初冬。

気晴らしに
散っていく銀杏の葉だなあ。
そう、今日は酉の市だ。

くらいの意味でしょう。銀杏の葉が不規則ながら次々に散ってゆく様を見ながら時間をつぶしている波郷の様子が伺えます。

看護婦の声に短日はじまりぬ

季語は、「短日(たんじつ)」で、三冬。

この句はきっと病室での朝の光景。看護婦さんが、「おはようございます」と言いながら、検温をしにくるところでしょう。 検温の時間は一年中決まっていますが、窓の外の明るさは季節によって違います。季節は冬、日短しです。短日とはいえ、今日一日、また辛くて退屈な時間が待っています。


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夏の川カヌー北へと遡る  森器

夏河や橋を上れば下るだけ

夏河のさざなみ人は振り返る

後ろから抜かるるばかり夏の川

水嵩の増えて鳥消ゆ梅雨の川


金沢風カレーライスを食べてゐる夕暮までにあとどれくらい

汗をかきジャスミンティーを飲み干しぬ梅雨は時間を逆さまにせり

名も知らぬ黝き虫飛び回る大地の果に帰ってくれぬか


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昨日から、石田波郷の『酒中花』の「水中花」の章の「四十雀」を読んでいます。

入院車待てばはや来て四十雀  石田波郷

季節は、11月初冬。にもかかわらず、夏の季語である「四十雀」を詠んでいます。

季語の約束を破ってでも、波郷は「四十雀」を詠んでいること。それは、四十雀が案外冬によく見られる鳥であるということもありますが、何より、入院に際して聴いた四十雀の声(あるいは姿)がとても印象的で、心に沁みたということを意味しています。

実感を重んじる波郷。こうしたことは珍しくありません。そういう句に触れると、私は俳句にとっての約束事の前にもっと大事なものがあるということを教えられるのです。

白日の草にとりつく灯蛾かな  森器

先のblog句会「悠々自適」で、投句した私の句のひとつ。

句会を開いている悠人さんが、「灯蛾」の季語の本意を理解していないと批判してくださった句です。


つまり、灯蛾とは、夜の灯りに集まってくる蛾のことで、白日という昼間の句に用いる季語ではないという指摘です。

 

確かにそうです。

しかし、では、自分の実感を大切にしながら、どう手直ししたらいいのか? 

波郷ならどうこの句を打開するのか?

 

難問です。

拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。