〇 石田あき子句集『見舞籠』(1)

石田あき子句集『見舞籠」の編まれた経緯については、『見舞籠』の石田あき子さん自身による後記に詳しく書かれています。引用します。

「俺もそう長くは生きられそうもない。生きて居る間に、長年病院通いをしてくれたお前に、俺のささやかな贈物として句集を出してやりたい。」

今年(昭和44年)三月、めずらしい春の大雪の解ける頃、三度目の病変の危機を脱した主人が話しかけました。私は自分の句集を出すことなど全く思ってもおりませんでしたので、

「そんなことおかしいですよ、まだまだ先のことですよ」と申しますと、

「これは誰にも内緒で、お前は何もしなくてよい。後書は俺が書く。お前が喜んでくれればそれだけで満足だ」私は主人が本気で言っているのだと思い、一瞬暗い予感が胸をはしりましたが、主人の気持ちはよろこんで受けねばならぬと考え直しました。


そして、この年の10月、あき子さんの句集の原稿はまとめられました。波郷は「見舞籠」と命名し、装丁も波郷が決めたのです。

ところが、同じ年の11月21日波郷は亡くなっています。結局、波郷は「見舞籠」に後書はつけられず、代わりに水原秋櫻子の序文が載せられました。12月には刊行されています。

それでは、昭和三十四年の冒頭句から(昭和三十四年には、全部で23句が掲載)。

白魚をすこし買ふ傘傾げつつ  (昭和三十四年)

季語は、「白魚(しらうを)」で、初春。

あき子さんは昭和34年(1959年)から俳句を詠むことを再開し「鶴」に投稿しています。波郷46歳、あき子さん44歳。この年の前年昭和33年、石田家は長年住んだ砂町から練馬区谷原町に引っ越し比較的安定した時を過していました。

あき子さんはこの昭和34年という年に関して「このままつづいていたら、私たち夫婦の生涯で最も充実した幸福の時代といえるのではないだろうか」と書いています。

掲句も平明なことばで、春の雨の中で白魚を買った事実を伝えていますが、質素な生活ながら平穏な石田家の日常が伝わってきます。

楡の花夫に寧き日いつまでも  (昭和三十四年)

石田あき子さんの代表句と言える一句。「楡の花」という季語は私の歳時記には載っていませんが、ハルニレの開花は3~5月頃とされています。若葉が展開する前に咲くものの、高い場所にあるため目立たないのだそうです。

「夫に寧き日いつまでも」という措辞も平明ですが、その純粋さに心を打ちます。あき子さんにとっては夫波郷が健康で俳句の仕事に没頭できることが何よりの喜びであったのだろうと思います。


今日は、この二句のみとします。来週も昭和34年の句から拾って紹介します。

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和蘭あやめビニルハウスの傍らに  森器

グラジオラス炎の剣の畠の中

楯もたぬ日本の武士や和蘭菖蒲

猫二匹雨のテラスに唐菖蒲

花つけぬグラジオラスに夕闇来


この川を下れば海に出ることは分かつてゐるが翼が欲しい



*和蘭あやめ、和蘭菖蒲、唐菖蒲は、グラジオラスの和名。

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NHK俳句6月号の高野ムツオ氏の「語ろう!俳句」という欄に、神野紗希さんの「あなたと出会うよろこび」という記事(随筆)が掲載されています。

神野紗希さんと言えば、昔、NHK‐BSの『俳句王国』という番組で司会をしていました(そのとき、彼女は大学三年生だったのです。知りませんでした)。私の父が夢中になって観ていた番組で、父の俳句も番組で取り上げられたこともあってよく覚えています。

その神野紗希さんの文章に次のような箇所がありましたので、引用します。

多くの俳人と句座を囲んで分かったのは、俳句に絶対の正解はないということでした。だって、金子兜太さんが「俳句は自由だ。とにかく十七音にぶっこめ」と豪快に笑った翌週には、稲畑汀子さんがしずしずと「俳句は季題の文学です」と諭されるのです。廣瀬直人さんには「否定形は俳句に向かない。俳句は肯定が似合うよ」と教えられました。水たまりでふやけた吸殻を詠んだら、藤田湘子さんに「俳句は美を詠むものだ」と叱られました。鍵和田秞子さんには「生きているあなたが詠む、ということを大切に」と励まされました。句会に出なければ気づけなかったことばかりです。俳句には人の数だけ正解があるのです。

確かにそうなのでしょう。しかし、逆に迷うことも多い。ときどき私は「いったい俳句で何をやろうとしているのだろう?」と疑問の湧く日があります。もしかすると、俳句をやめるまでこの疑問は消えないのかもしれません。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。