石田波郷と石塚友二との関係について、一言記しておく必要があると感じ、今日は、『石田波郷読本』の中に係載されている評論「風切会のころ」(昭33・4「鶴」)の一部を引用し、二人の関係について確認しておきたいと思います。

石塚友二は、新潟県出身の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の創刊者であり、発行編集者を務めました。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。

詳細を記したいところですが、ブログが長くなりますので、是非Wikipedia等で確認いただければと思います。

早速、「風切会のころ」の中の重要部分について引用します。赤字は私、森器が強調したところです。

(前略)

そこで「風切会」といふものを作って、臨時会誌「風切」を出すことにした。第一号は菊半截判に棟方志功の表紙(実は「鶴」のカットを使用)で、巻頭に風切宣言をのせ、鶴俳句の秀句を選んで選集「斑雪」として掲載した、

(中略)

 ところが、この風切会は「鶴」の中に党中党を作るもので、「鶴」を分裂させるおそれがあると、石塚さんのところへ進言に出かけたものがゐる。それが風切会の中の二三人だというふことをきいて、私はずゐ分気の小さい心配性がゐたものだと感心した。風切会は鶴俳句にあきたりないか、不満をいだいてゐる連中が集まつたものでもなく、風切宣言は鶴俳句を正すための宣言でもない。鶴俳句そのものを推進させるものである。それなら「鶴」でやればよいわけだが、いはば「鶴」でやる前駆をやる者がゐてもよいわけである。事実、この小さな百部位の小誌は俳壇で取上げられてかなり反響をおこしたものである。その反響のなかに、「鶴」の中の別派がさういふ宣言をしたとうけとつた者は一人もゐなかったことでも、前記のかけこみ訴へが、単なる杞憂にすぎないこと明らかである。さすがに石塚さんはそれを聞き流した。

 私は石塚さんと共に「鶴」と関係して二十年、私がなまけて石塚さんを困らせたこと怒らせたことは数限りなくあるが、お互いに相手を出しぬくやうなことをやつたこともなく、やるわけもないのである。これは今日に於ても変わりはない。
 
一つの雑誌が発展し、その主張する句風が進展し、多くの俳人が成長してくれれば意見の合はなくなる者が出てくるのは当然である。或る者は黙つて去り、或る者は別のより主張の近い雑誌へ走り、あるひは仲間が多ければ、もう一つの雑誌をやつてもよい。それが分裂なら分裂結構である。俳句は政治ではないから、数の勢力を必要としないからである。然し鶴が分裂しても石塚友二と石田波郷は共にどつちか同じ側に残るだろう。

 戦局は益々重大となり、「風切」は一号しか出なかった。「風切」の運動は風切がでるでないで消長するものでなく、そのまま鶴俳句の上に着々と示現されて行つたのである。


この文章で、いかに石田波郷と石塚友二が強い絆で結ばれていたかがお分かりいただけたと思います。と、同時に石田波郷という人の人間性もよく分かるのではないでしょうか。この人間性が彼の魅力であり、それが句にも表れているのです。

私は最初この波郷の魅力が分からないまま句集を読んでいたこともあって、大失敗と呼ぶべき大きな誤解・誤読をしたこともありました(先入観は怖ろしいです。分かった気にならないことが大切ですね)。しかし、今では全くの信頼を置いて彼の句を読み進めています。

長い文章にお付き合いくださりありがとうございました。

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夏燕わづかに撓み巣に入りぬ  森器

夏燕見張りてゐたり朝のバス

日射しさへ気にせず鳴けり夏燕

女子高生ペダル踏みけり夏燕

夏燕飛ぶ駅前の豚カツ屋


一日を慈雨の音にて過ごす日にあへて語れり虚しきこころ


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昨日のブログ、そして今日のカバーに掲載しました百合の写真は、わが家の庭の百合です。

薬の減薬の効果が出て、手の震えがやや収まり、写真が撮れるようになりました。

これからは写真も掲載していきたいと思いますが、

写真を撮るのが下手なので、まあほどほどにしたいと思います。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。