□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(32)

(「水中花・白桃」より)

露の樹の一葉もゆれず敗戦日

季語は、「終戦記念日(しゆうせんきねんび)」の傍題、「敗戦日(敗戦の日(はいせんのひ)」で、初秋。
「露(つゆ)」も季語で、三秋。

終戦記念日の朝の光景でしょう。その朝、露を溜めた樹の葉は一枚も揺れなかったという景です。

波郷はこの句で何が言いたかったのでしょうか? 露を溜めた木の葉は、おそらく戦争で親しい家族を亡くした遺族を象徴していると私は考えます。その遺族たちの悲しみは、戦後20年あまりを過ぎても静かな悲しみとして存在している、あるいは存在しなければならなかった、ということを言いたいのではないでしょうか。日本人の悲しみの表現の仕方を「一葉もゆれず」と詠んだのです。

下五は、「終戦日」ではなく「敗戦日」としています。ここにも波郷の先の戦争に対する考え方の一端を知ることができます。負けるべくして負けた、という気持ちがこの傍題に込められています。

  吉村先生母刀自秋草をたまふ
野踏み来て刀自が賜ひぬ吾亦紅


季語は、「吾亦紅(われもかう)」で、仲秋。

吉村先生は、先に次の俳句で登場した外科医ですね。

クロツカス齎せし手はメス執る手

「母刀自(ははとじ)」は古代語で、母の尊敬語。つまり、吉村先生のお母さまが波郷に秋の草である、吾亦紅をプレゼントしたというのがこの句の句意です。「刀自(とじ)」だけなら、家事をつかさどる女性、あるいは、主に年配の女性を敬意を添えて呼ぶ語を表します。

吉村先生のお母さまが
野原を踏みつつやって来て
私に秋の草である吾亦紅を
摘んできてくださったのである。

ということになります。吉村先生のお母さまに対する感謝の気持ちを表した挨拶句です。

罪の如白桃を買ふ銭鳴らす

季語は、「桃(もも)」の傍題、「白桃(はくたう)」で、初秋。

売られている果物自体が高級だったこの当時(最近はまた高級化していますが)、白桃を気安く買って好きなだけ食べるなどということはなかなかできなかった時代だったと言えるでしょう。そのちょっとした後ろめたさが、上五の「罪の如」、下五の「銭鳴らす」に表されています。

  呼吸困難
胸廊押せば手箱の如し法師蟬


季語は、「法師蟬(ほふしぜみ)」で、初秋。

「胸廊」は「きょうろう」と読むのではないかと思います。医学用語で、ネット検索でははっきりした定義を見つけることができませんでしたが、おそらくは胸全体の骨格を指しているのではないでしょうか。ですから、胸廊は、そのまま胸と解しても不自然ではないと考えます。

その胸廊を押してみると、まるで手箱、つまり身の回りの小道具を入れておく箱のように感じたという句意です。おそらく、手箱のように何か押すとポコポコと音をたてるような軽さを感じたという意味でしょう。

呼吸困難となって
胸廊を押せば、
手箱のような軽さだった。
折しも法師蟬が意気揚々と
短い生を鳴き尽くさんとしていた。

ということでしょう。呼吸困難で声もでない波郷とやかましく鳴く法師蟬との対比にこの句の本質があります。

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ゼラニューム乾いた空の真下にて  森器

星型のゼラニュームの花火花散る

葉の紅きゼラニュームの花探せども

偽りの愛か真白きゼラニューム

出会ひあれ黄のゼラニューム見尽くして

此の道を歩むよピンクのゼラニューム


口論も辞さぬとききてははそはの母の砦にいまわれ棲めり


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以前も書いたことがあるのですが、現代短歌の特色は何と言っても口語的な平明さにあります。

やさしい言葉で、身近にある新しい発見や新奇な修辞を31文字にのせることが大切なようです。こういう方向性は実は大正時代からあったように私は思うのですが、やはり現代短歌は、俵万智さんの『サラダ記念日』の衝撃があって変容し現代に至ったと考えるのが普通でしょう。

そうした現代短歌は、今まさにブームのど真ん中にあると言っても過言ではありません。しかし、だからといってすべての歌人が口語新かなで歌を作っているのではなく、文語旧かなの短歌も根強く支持されています。実は、現代短歌は混沌状態にあると言ってよいのです。

私の記憶に間違いがなければ、俳人の故金子兜太氏は生前、現代短歌の調べが、かつてのうねうねした力強さを失って平板になってしまっているということを指摘しました。

例えば、次のような有名な斎藤茂吉の歌。

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも  斎藤茂吉

そして、小島なおさんの次のような短歌。

父からのメールの口調が不器用で変だと笑う母の夕暮  小島なお

この二首を比較するとよく分かります。小島なおさんの短歌はとても分かりやすくて面白い歌ですが、斎藤茂吉の歌にはあるあのうねうねした音の調べが失われて、どこか平たい響きになっているのが分かります。金子兜太氏が気にしたのは、この響きの違いだと思われます。

私は、金子兜太氏のこの指摘を尊重しています。現代短歌でもまだどこかうねうねとした感触の残っている短歌が好きです。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は  穂村弘

もう決して新しいとは言えない、ある意味で現代口語短歌の古典とも言える短歌です。しかし、この歌にはまだどこかうねうねとした力強さが残っているのが感じられるのです。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。