□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(27)

(「水中花・水仙花」より)

  吉村先生水栽培の一花を賜ふ
クロッカス齎せし手はメス執る手


季語は、「クロッカス」で、初春。

「吉村先生」とは句の内容からいって手術を担当する外科医。その吉村先生が水栽培のクロッカスの花ひとつを持ってきてくれたという句。

せし」は「もたらせし」と読み、持って来たという意味になります。

クロッカスを持ってきた外科医の吉村先生の手は普段はメスを執る手だとという句意。メスを扱っている繊細なその手で、クロッカスを栽培し、その手で波郷に手渡されたということ。そこに波郷が感慨を抱いたといったところでしょうか。波郷の得意な挨拶句のひとつです。

  療養所ぐらしは
田楽や夕餉のあとの永日射


季語は、「木の芽田楽(きのめでんがく)」の傍題、「田楽(でんがく)」で、三春。

木綿豆腐を長方形に切って、平らな串にさして火に炙り、表面に山椒味噌をつけたものを田楽豆腐と言いますね。ここでの「田楽」は、その田楽豆腐のことです。

療養所の夕食に田楽が出てきたまではいいのですが、その夕餉のあとまだまだ日射しが残っている。そのことを「永日射」と表現したのです。療養所の夕食は早い。ですから、まだ日も暮れないうちに夕食が終って、あとは特にやることもない。そういう意味での「療養所ぐらしは」です。

「永日射」という言葉に、「日永」という三春の季語を見ることも可能ですが、あくまで療養所の生活の中の一コマであるということが言えるでしょう。

土工ら昼餉焚火の焔さへ啖ひ

季語は、「焚火(たきび)」で、三冬。

まず、読み方から。

「土工(どこう)ら昼餉(ひるげ)焚火(たきび)の焔(ほのほ)さへ啖(くら)ひ」

「土工」は、土木工事のことですが、土木工事に従事する労働者もさします。

「啖ふ」は「食らふ」と同じ意味です。「焔」と「啖」の旁の炎が呼応しているかのようです。

「土工の昼餉」(七文字)で切れていると見ます。

「ドコウラヒルゲ/タキビのホノホ/サヘクラヒ」

よって、本句は、

土木工事の労働者たちが、
昼食をとっている。
まるで、焚火の焔さえ
食べているようだ。

という句意です。焔を啖ふ、というのは、土工が大口で豪快に食べる様子を表したものであると思います。そんな健康的な土工の昼食の光景を病身の波郷が羨望の眼で見ているのです。

看護婦の羽織れる朱や春の雪

季語は、「春の雪(はるのゆき)」で、初春。

この句も分かりにくく、私の解釈が正しいかどうか?

まず「朱」は「あか」と読ませるのだろうと思います。「羽織れる朱」とは、看護婦さんが来ているカーディガンの色ではないかと思うのです。その朱いカーディガンと白い春の雪とのコントラストを狙った句でしょう。

看護婦の羽織っている
カーディガンの朱の色が美しいなあ。
折しも春の雪が降っている。

ということだろうと思います。ただ、看護婦さんのカーディガンの色は普通紺色ですから、ちょっと疑問が残ります。もし、もっと良い解釈がありましたら、コメント欄にコメント下されば幸いです。


ここまでで、「水中花」の章の「水仙花」が終ります。次回からは、「白桃」に入ります。

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雷や空の水槽割られたる  森器

遠雷や積もる思ひを肴とす

雷響に躍る心を笑ひ合ふ

炒飯の匂ひいかづち止むを待ち

みしみしとわが家軋ます鳴神よ


豪雨止み空のまほらに夏の風吹き抜くるらし鳥の飛びたつ


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毎日、俳句の兼題と格闘するようになってしまっている今日この頃。

その割には成果が上がらず、俳句を詠むのが嫌になってしまう日も多くなりました。

それでも結局歳時記と向き合ってしまうというのはいったいどういうことなのか?

下手の横好き、というのが最も近いかもしれません。

「俳句は苦手だ。でも、苦手だから克服するのだ」という妙な矜持だけが、私を突き動かしている可能性もあります。

でも、まだやめる時期ではないという直感があって、その直感に従って、今日も兼題と格闘しています。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。