□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(21)

(「水中花・水仙花」より)

冬菊や隣へ慰問聖歌隊

季語は、「寒菊(かんぎく)」の傍題、「冬菊(ふゆぎく)」で、三冬。

クリスマスが近づいた日、あるいは前夜、に病院に近くの教会から聖歌隊が慰問にやって来たということですね。「隣へ」が、少し曖昧ですが、おそらく隣の部屋へという意味ではないかと私は思いました。

季語は上五に置かれた「冬菊」。白い衣服を纏った聖歌隊が、清らかな声で聖歌を唄っている光景を想像しますし、それに相応しい季語が置かれています。ただ、おそらく波郷の病室の花瓶にも冬菊が活けられていたのではないでしょうか。

尾長の刻鳩の刻ある枯木かな

季語は、「枯木(かれき)」で、三冬。

窓の外に枯木が見えて、そこに止る鳥がオナガのときもあれば鳩のときもある。ベッドで安静中の作者にとって、野鳥の来訪が、寂しさと退屈を紛らわしてくれる重要なもののひとつであったのでしょう。しかし、その枯木に止る鳥は、いわゆる色鳥などではなく、ギャーギャーと騒々しく鳴くオナガであり、ぽぽと地味に鳴く鳩であることが面白いところです。これは別段季重なりを避けてそうした訳ではないでしょう。波郷にとっては見慣れたオナガと鳩の来訪を好ましいものと思ったに違いありません。

聖前夜酸素吸ふ管頬に留め

季語は、「クリスマス」の傍題、「聖夜(せいや)」で、仲冬。

「聖前夜(せいぜんや)」となっていますが、これは聖夜、つまりクリスマスイヴのことですね。「前」を入れることで、上五に言葉がすっぽり収まっています。

本来なら家族と一緒にクリスマスツリーにオーナメントを吊るし、クリスマスプレゼントの交換をし、卓のクリスマスケーキを囲みながら愉快に過ごすクリスマスイヴですが、波郷は病室で「酸素を吸ふ管頬に留め」ている状況です。なんとも散々なクリスマスイヴですが、病気ですから仕方ありません。少々自嘲気味ながら精一杯酸素を吸っている波郷の姿が目に見えるようです。

ここに酸素湧く泉ありクリスマス

季語は、「クリスマス」で、仲冬。

酸素吸入器を泉に喩えたわけです(「泉」は夏の季語)。体に新鮮な酸素が入ってくるのは、清涼な泉の水を飲んでいるのと同じだということです。このときの波郷にとっては、酸素が一番のクリスマスプレゼントだと言いたかったのかもしれません。

  この室は女三人とわれのみ
女患らにひとり混りぬクリスマス


季語は、「クリスマス」で、仲冬。

珍しいですね。男性患者が女性の病室と同室ということはまずあり得ないことですが、おそらくそこしかベッドの空きがなかったのでしょう。多少居心地は悪かったでしょう。ただ、波郷の病状はそんなことをいつまでも気にするような状態ではなかったはずです。

女患らも己が子持ちぬクリスマス

季語は、「クリスマス」で、仲冬。

クリスマスならば、子供達やその孫達と一緒に楽しく過ごすのが普通ですが、それができないことを同情しあっているような光景が想像できます。もちろん、子供たちが見舞いに来てくれていたかもしれません。面会時間は一緒ですから、病室が子供の声で華やいだともとれるでしょう。

女患らの夜泣うどんにさざめくも

季語は、「夜鷹蕎麦(よたかそば)」の傍題、「夜泣うどん(夜泣饂飩、よなきうどん)で、三冬。

夜泣饂飩の屋台が病院の側を通り過ぎて、にわかに女性患者たちが声をたてて言い騒いだが、もちろんそれを食べることはできなかったということですね。味気ない病院食ではなくて、熱々の屋台の饂飩が食べたいという心理はよく分かる気がします。

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姫女菀少女の爪に絆創膏  森器

姫女菀素直に笑つてゐたるなり

日々作るノートの余白姫女菀

理由なき悲しみふえて姫女菀

この道の果てには夕日姫女菀


小満の朝の雨音まだ強し庭の土鳩の鳴き始むるも

兄妹のともにからだを休めけり野猫の皿を少し動かす

十薬の花の白さが辛き日よ回覧板に印鑑を捺す



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ぱらぱらと短歌のアンソロジーを眺めていて、ふと目についた歌人がいました。

坪野哲久の奥さんであった山田あきさんの短歌です。坪野哲久も山田あきさんもともにプロレタリア短歌運動に活躍の場を求めた人です。

この手元にあるアンソロジーから、いくつか歌を拾ってみます。

連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり

戦に子を死なしめてめざめたる母のいのちを否定してもみよ

火消壺に燠を収めてけふの夜の相互批判の時刻迫りぬ

みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として

よろめきて生くるおのれのあかしとも業苦のにじむ韻律をうむ

被爆者の現身のあぶら石を灼きそを撫でしわれ永遠のつみびと

生き得たる胸の泉を溢れしめおんなはおんなのたたかいをする

花さえや裂けつつひらく八月忌この国を憎みまたいとおしむ

男らは異国の核をかくしもち見おろす神をないがしろにする

窮迫のあぶらのともる命とも生きて耐えにき暗くはあらぬ



詩情に溢れた短歌もありますが、やはり山田あきさんの短歌と言えば、ここにあげたような彼女の意志の強さが表れた短歌です。もちろん、プロレタリア運動に参加していたという事情があって、この力強い短歌が生まれているのですが、私は現代社会にこの力強さが失われてしまったことを改めて残念に思っている者のひとりです。

戦に子を死なしめてめざめたる母のいのちを否定してもみよ

というこの歌を否定できる男などいようはずがありません。

生き得たる胸の泉を溢れしめおんなはおんなのたたかいをする

というこの闘争心。はたして「おんなのたたかい」方とはどういうことか? でも、この気迫と潔さに男である私などは圧倒されてしまいます。

私は、「プロレタリア運動の再興をしろ」などと言うつもりは毛頭ありません。しかし、何かに抵抗するためには山田あきさんの歌にあるような言葉の強度がなければならないし、そうしなければ人を説得することもできない気がします。現代日本にあらゆる抵抗運動には、この強度が足りないと思います。むろん、これは私にもあてはまることで、だからこそ今日こうして山田あきさんの短歌のほんの一部をご紹介した次第です。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。