□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(20)

(「水中花・水仙花」より)

梅の枝の冬至の鳩もすぐ去んぬ

季語は、「冬至(とうじ)」で、仲冬。
「梅」も季語(初春)ですが、この句の主たる季語は「冬至」。

当然ですが、一年で一番日の短い冬至の日ですから、梅の枝にとまっていた鳩も夕闇の近いのを感じて早々と枝を去って塒へと帰っていったのですね。作者はこの鳩を病室の窓から見ていたのでしょう。この句の焦点は、病者である作者の寂しさや退屈といった感情にあるのが分かると思います。「私を慰めていた鳩よもう私の目の前から去ってしまうんだね」という感情が裏にあるわけです。この裏の感情を表出しているのが、「も」という助詞と「ぬ」という助動詞であることに私はちょっと驚きを感じてしまいます。「梅の枝の冬至の鳩の去りにけり」では、この感情を伝えることはできないようです。

柚湯にも入れぬ盗汗ふきにけり

季語は、「柚湯(ゆずゆ)」で、仲冬。

冬至の日、柚湯に入って無病息災を祈るという風習があるのに、絶対安静の波郷は柚湯に入ることもできません。それで看護婦さんに盗汗(寝汗)を拭いてもらっているということでしょう(自分で拭いているのかもしれません)。柚湯にも入れないとは、もう有病でこれからの一年を暮らさなければならないことが決まってしまったかのようです。そのもの悲しさを句にしたのです。

ちょっと形に特徴があります。切れが二つあるように見えます。助動詞「ぬ」と「けり」が両方用いられているからです。もちろんこの「ぬ」を連体形ととることも可能ですが。

冬至けふ息安かれと祈るかな

季語は、「冬至」で、仲冬。

冬至は一年で一番夜の長い日でもあります。病状が悪くなるのはたいてい夜の間、しかも冬至の頃ともなれば、もう寒さも厳しくなっています。何とかこの長い夜を無事に過ごせること、呼吸困難に陥ることがないようにとの素直な呟きが句となっています。

冬至の日富士もろともに燃え落つる

季語は、「冬至」で、仲冬。

冬至の日の夕焼の景でしょう。日が一番短い日の夕焼ですから、あっという間に終わってしまいます。病室の窓から見えるであろう富士山とともに冬至の日が燃え落ちるように終わったといいたいのだと思います。簡単に詠まれたような17文字ですが、冬至の日に感じた作者の寂寞感がじわっと伝わってくるのが分かるでしょう。

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寂寞の住宅街や薔薇探す  森器

薔薇園の少女は絵本に名を書きぬ

心臓を売つて言葉と青薔薇を

透きとほる風や白き手白き薔薇

崩れゆく手前の薔薇に夕日影


夕闇に梅花空木の白き花ふと感じたる新たな病


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全体主義が再び地球を覆い始めているような気がする現代。

こんなときは、反全体主義の思想書を読んでみたいと思っている人も少なくないはずです。例えば、ハンナ・アーレントやエマニュエル・レヴィナスなどは20世紀の思想ですが、読んでみようかと思う人はいるかもしれません。

しかし、アーレントやレヴィナスを読むのには、どうしてもマルティン・ハイデガーの『存在と時間』という難しい本をざっと読んでおくことが必要になるでしょう。そして、ハイデガーの思想を理解するのに、フッサールの現象学を知っておくことが前提となります。

フッサールの現象学を知っておくことは、サルトルやメルロ・ポンティといったフランス思想を理解するにも必要な知識となります。

かといって、いまさら、フッサールのあの著作を全部読んで理解するのはしんどいです。私も、実はフッサールの著作を2冊しか読んでいません。

そこで、私が目をつけた本があります。それが、竹田青嗣(たけだせいじ)著『現象学入門』(NHK出版)という本で、初版は、1989年です。

私は、体調の良いときにこの本を図書館から借りて読み、現象学の基礎的なことを学びました。とても分かりやすい入門書です。急がば回れで、まずこの本を読んでから、ハイデガー、サルトル、ポンティ、アレント、レヴィナスの本を読む方が理解が早いと思います。

この間、本屋に行ったら、この『現象学入門』の第50刷(!)が売られていたので購入しました。真夏の熱い夜にでもこの本をもう一度読み直そうと考えています。エポケー(判断停止)するのによい頃ですから(笑)。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。