□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(14)

今日より、『酒中花』の「水中花」の章の小題「リラの香」に入ります。

初めに、「リラの香」の小題の下にある波郷の一文を掲載します。

昭和四十年四月十一日、国立東京病院東療病棟に入院。六月七日退院。

つまり、波郷は再度の入院を余儀なくされたということです。

次に今日読む、波郷句四句です。

(「水中花・リラの香」より)

しんしんと子の血享けをりリラ匂ひて

季語は、「ライラック」の傍題、「リラの花」で、晩春。

ご存じのとおり、ライラックはヨーロッパ原産のモクセイ科の落葉小高木。ライラックは英名で、リラは仏名ですね。晩春、多数の薄紫の四弁の小花が、葡萄の房のような量感で枝先に咲き、その穂状のかたまりは芳香を放ち香水にもなるということです。

さて、波郷の病気の再発・悪化の句を読んでいくのですが、最初の句から病状がかなり深刻であることが伺われます。入院早々に子供の血を輸血してもらわなければならないほど吐血したのではないでしょうか。その輸血の状況を「しんしんと」と表現しています。衰えた体力で身動きのできない身体をベッドに横たえつつも、波郷の五感はかえって冴えていく。視線はおのずと子供の血に、そして嗅覚は病室に飾られたリラの花の香を感じています。何か純粋なものが体に滲みこんでいくような感覚を波郷は感じたのではないでしょうか。

私(森器)も少年時代に輸血の経験があります。父の血液と何人かの他人の血液が輸血されたのです。そのときの印象は今も忘れません。子供心にも、他者の血液で生きているという不思議を感じざるを得ませんでした。

吸吞のレモンの水や春の暮

季語は、「春の暮(はるのくれ)」で、三春。
「レモン(檸檬、れもん)」も季語で、こちらは晩秋。
もちろん、主たる季語は、「春の暮」。

水呑(すいのみ)にレモン水が入っていて病状のおもわしくない波郷がそれを吸った。爽やかな香りを感じつつ、乾ききった喉を潤すと自分がまだ生きているという感覚を感じられた。時刻は、「春の暮」すなわち春の夕方なのです。

春の夕暮は、特に抒情的な雰囲気を醸し出す季語ですが、そこにほんのり酸っぱいレモン水とが取り合わされ、極めて個性的な一句となっています。何よりも病者が危険な状況にありつつも意識があるとき、このような感覚の鋭さを持つということを知っておかなければなりませんし、その感覚を俳句にしてしまう波郷の才能にも驚かざるを得ません。

  輸血相つぐ
君たちの血がめぐるより汗ばめる


季語は、「汗(あせ)」の傍題、「汗ばむ」で、三夏。

他者の血がからだをめぐっています。血液を提供してくれた人物たちの名を知って、おのずとその顔が思い出されるのです。他者の血によって生きているという感謝の気持ちも湧いてきます。輸血によって、体温が上がり、うっすらと汗をかいているのが自分(波郷)でも分かります。血を提供してくれた人への恩を考えれば、何とか回復しなければならないと波郷は考えたでしょう。「汗ばめる」には、そうした波郷の意志も感じられます。

見舞のリラ葉をひろげけり春の雨

季語は、「ライラック」の傍題、「リラの花」で、晩春。
「春の雨」も季語で、三春。

見舞客が持ち込んだリラを詠んだ句ですが、リラの花ではなく、リラの葉に関心を寄せています(とすると、主たる季語は、「春の雨か?)。リラが生き生きとその葉を広げている様子に生命の力強さを感じているのでしょう。そして自分もまた、リラの葉のように力強く生きたいと願っているのですが、外では春の雨がしとしとと涙のように降り続いているのです。死と隣合せとなった患者の生への強い思いを感じるとともに、その五感の鋭敏さに慄いてしまうほどです。


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葉を舐めるやうに彷徨ふてんと虫  森器

木鋏を掠めてゆきしてんと虫

着慣れたる黒きTシャツひさご虫

木漏れ日へ天道虫の消えゆけり

気の塞ぐこころ隠せりてんと虫


降り出した五月の雨に人を恋ふジュリー・ロンドン愛を唄へば

カルピスを炭酸水で割つて飲む遠き記憶のたばしる五月

わが庭に蛙一匹棲みついてしきりに鳴いて神となりたり



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「水中花・リラの香」の冒頭四句を読みました。輸血をするという経験とその感情を私なりに表現しようとしたのですが、どうしても良い言葉が見つかりませんでした。なので、今日の鑑賞には私は大変不満足です。

輸血を受けた人には、血を提供した人への感謝の気持ちとその恩に応えようとする意志があることは確かなのです。波郷句にもその心が強く現れていると思います。

けれども、そうした感謝の気持ちと合せて、他人の血で生きたという不思議な感情が湧いてくるものなのです。でも、その感情を私はうまく表現できません。

輸血治療を拒否すべしという宗教もあります。私は命の大切さを考えれば、輸血治療は必要不可欠と考えています。それでも、輸血を拒否するという人の心をまったく理解できないわけではありません。輸血を受けたということが私に与えた影響はけっして小さくないからです。

輸血を受けた時点で、もう自分の身体は自分だけのものではない、と言ったらよいでしょうか? そうなると、もう自分の命は、輸血前のそれとは異なったものと思えてしまいます。この感覚を私は50年近くが経過した今でも思い出すことが少なくありません。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。