□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(3)

(「水中花・鹿子草」より)

  水田帆舟
胡頽子(ぐみ)くれて君も嗄声の一患者


季語は、「胡頽子(茱萸、ぐみ)」で、晩秋。

ただし、制作順に配列していることを考えると、この茱萸は夏茱萸ではないでしょうか?

「胡頽子」は、茱萸の古字。波郷はわざわざルビを打ってこの古字を用いています。

「水田帆舟」について調べましたが分かりませんでした。句に「君も」とあるので、人の名であり、かつその名前からこれは俳号か雅号なのではないかとは思うのですが。

「嗄声」は「させい」と読みます。しわがれた声という意味でしょう。

茱萸を私にくれた水田帆舟君。
君もしわがれた声をしている
病棟の一患者なのだなあ。

くらいの句意ではないかと思います。おそらく病院の庭か、病院の近くで夏茱萸が生っているのをとってきた患者がいて、まるで健康な少年のような笑顔で波郷にいくつか手渡したのでしょう。しかし、彼の声はやはり病人にありがちな老人のようなしわがれた声だったのです。彼もまた自分(波郷)と同じ患者なのだと改めて感じたのでしょう。そしてきっと自分(波郷)の手にある赤い赤い茱萸の実をじっと見つめることになるわけです。

松風に蚊帳配られて真白なり

季語は、「蚊帳(かや)」で、三夏。

私は蚊帳を使った記憶がないので、歳時記の記述から引きますと、「ふつうは麻を使い、萌葱色に染め、赤い緑布をつけた。白、水色、絵模様もあった」とあります。このことから、本句で配られた蚊帳が「真白」であったことも頷けます。さらに、歳時記には「かつては吉日を選んで吊り、吉日を選んで納めた」とありますから、本句はその吉日にあたるのかもしれません。

蚊帳を吊る吉日が来て、
松風が窓から吹き込んでくるときに
看護婦が病室に蚊帳を吊った。
その白い蚊帳のために目の前が真っ白だ。

鹿子草こたびも手術寧からむ

季語は、「鹿子草(纈草、かのこさう)」で、晩春。

纈草は、オミナエシ科の多年草。山地のやや湿った場所を好んで自生する草で高さ30~60センチ。四、五月頃、淡紅色の細かい美しい花が茎の先に群がり咲くのだそうです。

作者は淡紅色の美しい纈草の花を見ています。その花に慰められ、「こたびも手術寧からむ(今回も手術は簡単に済むだろう)」と思わず呟きます。

本句の景は、波郷の再手術(合成樹脂球摘出手術)の日が決まった瞬間ではないでしょうか? 「こたびも手術寧からむ」と言っていますが、前回の手術が簡単な手術ではなかったことは明らかです。『惜命』(「成形」)からいくつか句を引いておきます。

鵙遠し肢を緊縛されつゝをり  石田波郷『惜命』
たばしるや鵙叫喚す胸形変
鮮烈なるダリヤを挿せり手術以後
麻薬うてば十三夜月遁走す


「二次成形その後(『惜命』)」には、

眠れぬ夜凍てゝゆくらむ水一壺

の句もあります。

本句の言葉とは裏腹に、今回の手術もそう簡単ではないかもしれない、という気持ちがありつつもあえて「寧からむ」と言うこと。『惜命』時代には、「命を惜しむ」心の強かった波郷とは違った心境がそこにあるとみなくてはななりません。

本句の心には、この手術の結果がどうであろうとその結果を受け入れようという覚悟が伝わってきます。達観という言葉は嫌いですが、まさにそれに近い境地にいたのではないかとさえ思います。

手術の日を聞いて、纈草を見ている間、過去を振り返りいろいろなことが頭を過ったかもしれません。旅先の風景、さまざまな人との出会い、二人の師の言葉、石田家の妻と家族、そして松山にいる母など、きりもなく記憶が蘇ってくる。そのとき、病者であるにもかかわらず一時の幸福感が体に満ちてくる感じがしたのではないでしょうか。

その先の「寧からむ」であると解したいところです。

。。。。。。。。。。。

春愁ふ烏の豌豆摘みをり  森器

春愁や手首の時計外したし

春かなしぶつかけうどん啜りても

春愁の鉄塔を見て頭あぐ

春愁の瞳の中に土鳩の目


生をうけ忽ち逝きし命あり彼らの影はわれを生かしむ

永久歯未形成なる病持ちぼろぼろの歯でなほわれは生く

紅糀サプリメントの死者について 
五人のうち三人が既往歴つまり二人は健康であつた

健康に自信がないからサプリ飲むそんな気持ちは分からぬでもない

ワクチンを打ちたる〈覚悟〉の善し悪しを言ふ資格など誰にもあらず


。。。。。。。。。。

ヴィム・ヴェンダース監督作品、映画『PERFECT DAYS』を観たのは、先月の19日でした。ところが、私にはまだその余韻がさめることがありません。「傑作を観た」という喜びは日増しに強くなるばかりです。

私は、観客に緊張を強いる映画は苦手で、どちらかと言えばぼんやりと映画を眺めて観るというのが好きです。ミステリーを観ても、観ているうちに筋なんかどうでもよくなって、あの月のシーンが良かっただとか、置いてあった壺が素晴らしかっただとか、オープンカーが一本道を疾走するシーンがいいとか、そんなことばかりに目がいってしまいます。

映画で、筋を追ったり、登場人物の人格がどうだ、とかそんなことを考えたくない質です。そんなことをするのは小説やテレビドラマで十分。映画は、どっぷりと画面の中に身を浸していたいのです。

『PERFECT DAYS』で、私が好きなのは、主人公が空や木漏れ日を見上げるシーンのいくつかです。役所広司の微笑みは本当に素晴らしい。心に残るとしか言いようがありません(それと、浅草の地下街。これは個人的な理由)。

音楽も重要な要素ですが、ヴィム・ヴェンダース監督は音楽を効果的に用いるという意味においては特に優れた映画監督のひとりではないかと思います。

そんなこともあって、最近はYouTubeで、その傑作で使われた音楽とその周辺の洋楽を聴くことが多いです。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとかパティ・スミスなど、いままで知っていてあまり真剣に聴くことがなかった音楽に耳を澄ませ、時折、歌詞の内容などを確かめたりしています。

そうした音楽を聴くとまた映画のシーンが浮かび、そのシーンが浮かぶとまた音楽を聴きたくなる。この悪循環(?)から抜け出すことがなかなかできません。でも、この悪循環があってこそまた映画を映画館で観たくなる気持ちにもなるのです。

日本の映画評論家からも本作は高い支持を得ているようですが、残念なことにアカデミー賞は逃しました。何がいけなかったのか、ちょっと訊きたい気もします。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございます。