□ 石田波郷第七句集『酒中花』Ⅱ(2)
(「水中花・鹿子草」より)
青葉木菟夜勤看護婦の声も絶えぬ
季語は、「青葉木菟(あおばづく)」で、三夏。
「青葉木菟」は、フクロウ科の夏鳥。青葉の頃、雄がホーホーと二声ずつ、単調で物悲しい声で鳴くと言われています。
夜も更けて、患者達のほとんどが眠りにつき、夜勤の看護婦さんの話声もとうとうなくなり、ただ暗い病室に青葉木菟の物悲しい声だけが聞こえてきます。作者は眠りたくてもなかなか眠りにつくことができないでいるのでしょう。そして、まるで羽音をたてずに飛び回る青葉木菟のように、看護婦さんは眠ることなく患者のための仕事をしているはずで、作者はその気配をしっかり感じているのです。
青葉木菟の声は実際に聞こえたに違いありませんが、それにしても計算されたかのように季語としてよく効いています。
看護婦二人低枝の桃の袋掛
季語は、「袋掛(ふくろかけ)」で、三夏。
「袋掛」は、果実を鳥や病虫害から守るため、新聞紙などの紙の袋を掛けること。本句では、桃の袋掛をしている看護婦二名の姿を描写しています。桃の木は、「低枝(ていし)」と言っているので、低い木で、二人の看護婦は、おそらく立って作業することが可能だったか、仮に脚立を使っていても低いもので用が足りただろうと想像がつきます。
看護婦の双手惜しまず袋掛
季語は、「袋掛(ふくろかけ)」で、三夏。
さらにもっと深く、作者は桃の袋掛をしている看護婦の様子を描いています。「双手(そうしゅ)惜しまず」という言葉で、看護婦がいかに袋掛に専心しているかが分かります。同時に、日頃、苦労を惜しまず患者と接し働いてくれている看護婦さんの仕事ぶりも想像させて、看護婦さんへの尊敬と感謝の念をこの句で表しているとも言えます。
その袋掛がされている桃の木の桃は、やがては病棟の患者達の口に入ることになるのでしょう。当然、波郷もこの桃を食べることになるはずで、波郷もそれを楽しみにしていただろうと思います。
さらに、少し深読みをすれば、この二名の看護婦の姿に波郷は、自分とあき子さんの姿を重ね合わせていたのではないかと推察します。というのも、石田家は昭和33年(1958年)に、江東区砂町から練馬区谷原町へと引っ越しをしています。その練馬区では広い庭を持ち、数多くの花や果実のなる木を植えていました。その草木の世話は、波郷とあき子さんの二人で行われています。その庭に桃の木はなかったかもしれませんが、梨の木はあったようです(「谷原雑記」昭35・1「馬酔木」)。梨があれば、梨の袋掛をしたでしょう。谷原引っ越し後の数年間の生活は、波郷にとって公私ともに充実した日々であり、何より石田夫妻にとって幸福なひとときであったのです。
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花びらの綺羅と散りけり花の雨 森器
花の雨じつとたへぬく木となりぬ
花の雨胸の鼓動の聞こえをり
傘を振り首を振りけり花の雨
味噌汁の豆腐は甘し花の雨
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3月にXに投稿した短歌を掲載させていただきます。数が多いので絞りました。
コカ・コーラの闇を飲みつつあの人の心がはりを待ちたる夜明け
肩の上に銀河をひとつのせる猫ビックバンなどないかもしれず
若き日のわが価値観を粉砕し今も輝く則巻アラレ
草香る未明の風呂に浸りつつ想ふはあの日の琵琶湖の朝日
ペダル踏み探し見つけし喫茶店ミモザの花の卓を飾りて
鬱の日の目覚めに白いヒヤシンス香れば夢の鎖ほどけず
耐へるとはしどみの花の赤きいろ春の北風けふもまた荒れ
ぼた餅を四つも食べて詩を書きぬ遺影の母は笑ふほかなし
春分の日のよろこびにながれつく青い魚は背鰭ふるはす
故郷は強き彼岸の風の中勿忘草の花も冷たし
菜の花に逢ふためだけに土手に出るけふは別るる横雲の空
ペダル踏み春の冷雨の中をゆく見舞ひし父の笑顔に濡れて
雨雲に花びら閉ぢしオキザリス蕎麦屋の庭にふと立ち尽くす
香の残る落花ましろきヒヤシンス人はたやすく人を忘れず
小鳥らの木末(こぬれ)をつたふ春の昼ここに小さき幸福の椅子
徒にひとりさまよふ地下街の灰となりゆく出会ひの言葉
宝くじ売り場に並ぶ神々の後ろに立ちて見る曇り空
花を見ず蘂となりにし蒲公英のあはれを君に言ひしことあり
白粥の熱きをそつと啜りつつ春の南風吹くをよろこぶ
安静のけふ一日と決めてより初花見たしの思ひ募れり
テーマが与えられてそれに応えて作った短歌もあります。どちらかと言えば即興的ですが、目的は、旧かな文語を用いながらも、現代短歌のニュアンスを入れるにはどうすればよいかを考えることです。あまり、うまくいってはいないようで申し訳ないです。
拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。