□ 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ(71)

(「冬」より)

  帰 京
母の目や軽便さむく吾去れば


季語は、「寒し(さむし)」で、三冬。

「軽便(けいべん)」とは「軽便鉄道(けいべんてつだう)」の略。線路の幅が狭く、機関車・車両も小型の小規模の鉄道のこと。

『波郷百句』に自解があります。

昭和十七年十一月、末弟長則送別の為帰郷、旬日を父母の許に過ごした。離郷の日一里近い道を軽便の駅まで老母が送つてくれた。爾来相会はない。末弟はビルマで死んだ。

『波郷百句』は昭和22年に発刊されていますので、その時点における波郷の自解です。この自解をもとに当時の波郷の心境をあえて述べれば次のようなことになるだろうと思います。

帰京する際に軽便の駅で見たあの母の訴えるような目が忘れられない。
私が去ってしまうと、この軽便は寒々しいものになってしまった。

という句意でしょう。この句は、波郷が母の気持ちを代弁するかのように見えて、実は波郷自身の感情を表現しているのです。言葉の軽い捩れが汽車での別れの悲しみをさらに深いものにしていると思います。

仏飯の麦めでたさよ初霞

季語は、「初霞(はつがすみ)」で、新年の上。

「仏飯(ぶつぱん)」とは、仏供(ぶつぐ)、仏餉(ぶつせう)のこと。つまり、仏前に供えられる米飯のことですね。その仏飯が正月であっても白米ではなく麦飯であるわけです。それを波郷は「めでたさよ」と詠んでいます。正月ですから目出度いのは目出度いのですが、これを文字通り目出度い取るか、取らないかは意見の分かれるところでしょう。ただ、季語は「初霞」。私は何となく先行きの不安を感じ取ってしまいます。

子供らにいつまで鶴の凍つるかな

季語は、「鶴(つる)」で、三冬。
また「凍つ(いつ)」も、「冱つ(いつ)」の傍題で、三冬。

本来、鶴は縁起の良い鳥ですが、それが冬の厳しい寒さに耐えているという景です。しかし、「子供らに」の上五がこの句の肝であることがすぐ分かります。いつまで、この子供らにこの耐え忍ぶ生活をさせるのか? という波郷の呟きです。これをもって、反戦の句と言えるかどうかは微妙ですが、子供らに対する同情のまなざしを感じることができます。この戦争に対する波郷の思いが単純でなかったことを表している句のひとつだと言えるでしょう。

篁に朝が来にけり雪卸

季語は、「雪下し(ゆきおろし)」の傍題、「雪卸(ゆきおろし)」で、晩冬。

竹藪に朝が来てしまったのだなあ。
雪下しをしなければ。

おそらく、夜更けが過ぎて雨が雪に変わったのでしょう。作者は、夜明け前から、予想以上の雪の降り方を案じて眠れずにいたのかもしれません。そして、実際に夜が明けて、外の景色を見てみると、竹藪の竹が雪の重さで撓んでいる。これは、きっと雪下ろしをしなければならないほどの雪だと気づかされたわけです。あるいは、もう雪下しをしている家もあったかもしれません。美しい雪景色を楽しみたい一方で、雪下しをしなければならない現実もある、といった感じでしょうか。

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幸福は曖昧にしてオキザリス  森器

雨雲に十字切る人オキザリス

オキザリス蕎麦屋の窓のうすあかり

二杯目のコーヒー冷めてオキザリス

不束な人こそ大事オキザリス


花の色は移りにけりないたづらに憲法論も玩ばれてあり

憲法に反する法は無効なりその罰則の重み知らねば

憲法を美学にすればますますに峰に別るる横雲の空


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近くの蕎麦屋の店先の歌壇にオキザリスの花が咲いていました。小雨がちの日でしたので、花びらが完全に開いておらず、やや花がうなだれている感じでしたが、その黄色い色は鮮やかで、思わずスマホのレンズを向けました。オキザリスの花にはこのほかにもピンク、白、藤色、紫紅色などがあるそうです。

幸福といふ不幸ありオキザリス  石寒太

何度もこのブログに書きましたが、私は短歌が好きですが、言霊というものにはどうしても馴染めません。情と理を完全に分けてものを論じることは難しい。でも、理は理として語らなければ収拾がつきません。

例えば、憲法においては、改憲派も護憲派もあまりに情がかちすぎていると私は感じています。

改憲派の主張によれば、現在の日本国憲法は、米国によりおしつけられた憲法であり、言葉も翻訳調で美しくないと言います。まるで悪文の見本のようなものだと言われる方もいます。特に、憲法の前文は、問題とされていて、自虐的とさえ言われます。憲法の前文は自然な格調の高い日本語で、日本の伝統に即した形で表現されるべきだとの主張もよく聞かれます。

しかし、私がかつて読んだ自民党の憲法草案なるものの前文は、とても現憲法の格調の高さに匹敵するものとは言えませんでした。そのときの幻滅感は忘れられず、今では、憲法改正はあっても最小限に抑えるべきだと考えるようになりました。

かといって、護憲派の言うようにこのまま憲法を改正せずにいれば世の中がうまくいくとは限らないと思っています。私は、時代に即した権利や概念を憲法に記すことはけっして現在の憲法の理念に反するとは言えないと考えています。

まずもって、私が憲法改正でやりたいことと言えば、日本が核兵器を持たないことを明文化するということです。私は、現憲法下においては、核兵器を保有することは違憲とはならないという立場をとっており、だからこそ、核廃絶という視点から、憲法に日本が核兵器を持たないということを明記しておくことが肝要だと感じています。反核は私のどうしても譲れない一線です。

とにかく、情緒によって憲法を語ることはやめにして欲しいと考えています。あくまで、理によって憲法の三原則を守る姿勢こそ肝要だと思います。そして、もしより優れた憲法の前文が欲しければ、日本の伝統的な歴史や思想のみならず、この地球上にあるあらゆる(宗教を含めた)思想や文学や歴史を念頭に入れて、現在の人々のためにだけでなく、来るべき未来の人々に向けて文章を作る気概がなければならないと考えます。

でも、そんな文章が書ける人が現代日本にいるのかどうか、はなはだ疑問です。憲法改正にあたっては、前文のない憲法草案が出されることになるのではないか、という考えに到っています。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。